今回の文稿は長いし、分かれているので2回に分けます。
「筆記一則」 安政3年6月
唐の徳宗の貞元元年(785年)、陸贄(りくし)が上奏した。
その大体の内容は「人に爵位を与える場合は必ず朝廷にて於いて行い、人に刑罰を課す場合は必ず市中にて行なう。なぜなら、衆目にさらされず事の表立たないのを、恐れるからである。陛下はこれらの事が行なわれて愧じる心なく、万民はこれらを聞いて疑義がなくなる。賞を受けて喜ぶという事で恥かしく思う事もなく、刑罰を受けたからと言う怨言もなくなる。これは聖王の法典を宣言・明示し、天下において公共するものである。
およそ讒言の訴えの多くは真実の言葉ではなく、中傷を目的とし、公開されることを恐れる。
ある人が言うに『歳月が長く経過している、だから追及すべからず』と。またある人が言う『事態に問題がおこる、とりあえず穏便に』と。さらにある人が言う『罪の証拠は未だ現れていないが、適当に他の事をでっち上げ取り繕うべきだ』と。さらにまたある人が言う『ただその人を無視するだけ、だから物事を明らかにし責任をとり辱めを受けるまでの事はない』と。
これらの言葉はみな人情・道理に近いと思われるが、そうでなく実はいつわりや欺きの意が込められ、善を損ない悪をはびこらせる事、これより甚だしいものはない。
さて、訴訟を受け、罪を判断するには、必ず当人の気持ちを考え、事実で判断する。気持ちが現われ、事実が現われ、訴え事を十分聞き・理窮まって、しかる後に刑罰を加えるべきである。このようにして始めて、下に冤罪がなく、上に誤認がなくなる。」と。
私は、この通鑑を読み、この部分に至ってため息をつき、本を閉じた。
そこで私は、同囚である富永有隣に言うに「今、あなたの下獄の罪状につき、詳細に究明されていない。そのなかでひどいものは、親戚が合議し付き合いを止め、あなたを囚人にする。一たび獄に入れば、身が亡ぶまで免獄されず、それは永久禁錮に変わりはない。そこで長流という島流しの罪は死罪に較べ軽いのは一等級だけである。そして、永久禁錮の罪は、長流の上にあるという事であるから、その罪の重きこと明らかである。
そして、その罪が永久禁錮と同じ罪であるのに、初めより究明をされていないというのは、どうして冤罪と誤認がないと保証できるのか。」と。
すると富永有隣は「そうだ、孔子は言わなかったか『父が子の罪を隠し、子は父のために隠す、心の真実はこの中にあり』と。私もまた親戚より廃囚された者、どうしてその冤罪を正せばいいのか。また父子が相隠すと言う事は、天倫の厚いことであるし、人道の正しい事、当然のことである。」と。
右(上)乙卯(安政2年)6月20日、私が野山の獄にあった時、有隣とたまたま談話し、感ずるところがあったので、それを文にし、著した。
丙辰(安政4年)6月。
(続く)
陸贄(754~805) 字は敬輿。蘇州嘉興の人。18歳のとき、進士に及第した。華州鄭県の県尉・渭南県主簿・監察御史などを歴任した。徳宗が即位すると、翰林学士となった。帝の不興も恐れず、帝の重用していた盧杞の罪を鳴らしてやまなかったという。建中4年(783)、朱泚が叛乱を起こすと徳宗に従って奉天に避難した。官は考功郎中に遷った。朱泚が大秦皇帝を名乗って勢威をほこったため、陸贄は徳宗に己を罪する詔を下すことを勧めた。その方策はあたって、罪を許された藩鎮が帰順したので、危機は去った。李懐光が叛乱したときも、徳宗は梁州に逃れたが、陸贄は諫議大夫としてこれに従った