それでは、「意識は実在しない」河野哲也から、クオリア論議を始めます。


著者の戦略としては、先ずデカルトの懐疑主義を誤りとするところから始めています。そして、直接実在論を擁護し、この論により、クオリア・意識を料理するのです。

それでは、今日は著者の“懐疑主義の誤り”の章を批判します。


で、その懐疑主義とは何かと言えば

懐疑主義は、・・現実の知覚が夢や幻覚と識別できないと考えるから生じてくる。

とし、例えば、

赤いリンゴを見たとする。その人物が今度は、・・赤いリンゴの夢とか幻想のような経験をする。そこでこの二つの場面において「直接に知覚されるもの」は同じであるが、後者ではリンゴは実在していない。夢や幻覚は主観的なものである。

従って、現実のリンゴを知覚しているという前者においても、知覚されているのは、実在のリンゴではなく、心的なもの(クオリア、センスデータ)だと言う事になるのである。

この論法は、知覚とは外界世界を直接知覚するものではなく、私たちが直接知覚するのは内的な表象であるという「表象主義」と呼ばれる考え方も含んでいる。

の事です。


この推論に対し、多くの人々(多分著者も)反対してきたのです。その根拠はと言うと

知覚と幻覚(夢)は決定的に異なるものである・・つまり、同一のクオリアなど存在していないという指摘」なのです。次に、

ここで重要なのは、錯覚と幻覚の区別である。・・錯覚は、そこに非現実的な物が現れ出ているわけではない、写真に撮ることも出来る。その意味で全く客観的なのである。

当然と私も思います。


その他、色々と説明があるのですが、要は次の点に集約されます。

知覚と言う行為は、環境に対して適用的に相互作用をするが、心象を形作るはたらきには、そうした現実吟味の働きは全く有していない。・・

知覚とは、世界との接触を保つことなのだ。

なのです。


頭を動かせば視界から消えるとか、見えないところでも見ようとする事が出来るのが現実で、夢はそうはならないよ、と言います。

自分の周辺とのやり取りが出来るのが現実である、夢では出来ないと言うのです。


でも私の考えはでは、そうはならない。以下に説明します。


第一に、

たしかに、クオリアにおいて知覚と幻覚・夢は異なります。そして、知覚においては頭を動かせば見え方が変わります。さらに、現実では、自分で周りを再検討できます。


でも、これは夢を見ていても同じです。夢の中で振り向けば見え方も変わりますし、また夢の中で“私は今夢を見ているのではないか”と思う事があっても“いや夢ではなく現実だと”思うこともあるのです。

脳は、自分の都合のいいように解釈すると言うのを良く聞きます。自分で自分を無意識でごまかしてしまいます。

だから夢の中では、自分で自分の周りの再検討が出来ます。

このように、見え方の違いにより、知覚と幻覚を分けるのは困難な場合があるのです。

結局、この異なりだけを基に、“現実の知覚が夢や幻覚と識別できないという懐疑主義“が誤っている、と言い切るのは間違っています。


次に、

懐疑主義で“夢と知覚が識別できない”というのは、“見え方が同じだ”と言う事を言っているのです。そして見え方とは見たその物のことです。


それでは視覚だけに限定して話を進めます(他の感覚も同様です)。

状況が変われば見え方が変わりますよね、錯覚も、蜃気楼もそうです。お酒を飲んだとき、眠いとき、恐怖におびえた時、など。おばけも、UFOも実際目で見えるのです。

そして、そこに物体があってもなくても、見えれば、脳は見えたと判断します。錯覚も、おばけも、UFOも事実そのように見えているのです。

リンゴも赤く見えているのも、見えているという事実は変わりません。そこにリンゴがあってもいいし、なくてもいいのです。見えれば見えたと判断するというのが脳システムなのです。

知覚も、錯覚も、幻覚も、夢も見えれば同じとすると考えられます。

すると、夢も現実も、どう違うのか、と言われれば答えに窮しますよね。


また次に、

著者のこの懐疑主義に対する反論に抜けがあります。それは、“知覚すると言う事がどう言う事か”を説明しないで、知覚と幻覚が感覚として異なるから、懐疑主義が誤っていると決め付けるのは、プロの哲学者の態度ではありません。


つまり、見えると言う事の説明です。全てに言える事ですが、見えるとは神経物理的にどの様に解釈したらいいのか。すると、知覚と夢の違い、そして同じところが明らかになります。


現実、神経物理的には我々は未だ理解できていませんが、

大筋のラフは説明が、この様な論を展開するためには必要な事です。


つまり、認識の本質を避け、口を閉ざして、都合のいいところだけをつまみ食いするようにするのは、それこそ誤りです。


現実にしろ夢にしろ、観察・見ている主体は何なのかの立ち位置・スキームを明確にしないで論を勧める事はできません。でないと、この論は砂上の楼閣のなります。


そこで、著者がどの様に考えているのか。私の想像ですが、

“現実の実在した主体が脳内に存在している”という仮定を基に論を進めているのではないでしょうか。その主体がリンゴを見ている。その主体が、自分の納得のいく見え方をすれば現実の知覚で、そうでないときは夢である、と。

そして、著者は、現実のリンゴが存在する事になんら抵抗を持っておられません。

見て、触って、食べて、納得すればそれが実体であると考えているようです。

また、“夢や幻覚が主観的である”といわれている点にも現れています。知覚は主観的ではないようです。

こう考えると、直接実在論が息を吹き返してもおかしくありません。


認識の次は存在ですが、

この様に、目の前に“リンゴがある”、と断言されますが、このような納得だけでいいのでしょうか。そうではないはずです。納得なら夢の中でも出来ます、それじゃ、“ある”とはどういう方法で証明出来るのでしょうか。


ちょっと考えれば証明はできませんよね。

だから、つまり、あるという事において、無理・矛盾が測定・観察においてなければ、それで“よし”とせざるを得ないのです。

私・あなたに“意識があるか”の証明ができないのと同じです。

ともに、直接アプローチ出来ないのです。


結局、物的のしろ心的にしろ、“存在”は認識の中にしか存在できないのです。だから直接実在論なんてものはまやかしでしかないと、考えます。


そして、さらに、私の考えでは、

脳内の認識の主体、つまり脳内情報に意味を与えられるのは、脳内情報の物理的活動において環境との組み合わせの中で出来上がった情報世界があたえます。

まず、生存のため、物理的パターンが生命体に出来上がります。このパターンは勿論環境に依存します。危険な環境から逃げ出します。

感覚から行動への情報の流れが、一つの閉じられた情報世界・情報ループを作り上げます。これが生存のための物理パターンになり、いわゆる表象になります。

リンゴをみれば、このような特定の物理パターンが生まれてくる、と言うように。

このように、外部から観察できる第三者にとって、意味をその物理活動に見つけられます。


しかし、認識の主体(意識)は与えられたものではありません。

その物理パターン全体が持つ意味を、自分で作り上げると考えるのです。意味ですから、現世の4次元世界とは別の物と、ならざるをえません。

また、作り上げるのですから、どの様に作り上げても構わないのです。作り上げられた意味が、その組み合わせ・寄せ集めで矛盾が無ければいいのです。


このように、情報の意味が浮き上がってくると考えます。その情報の意味は具体的には“私が赤いと感じている”とか“私が痛い”というように、情報自体に主体が付属していると考えるのです。

情報の物理パターンは表象になるでしょうが、この主体を伴った情報の意味は、自立でき、自分を作り上げる意識その物になります。

ですから、意識に現われる自分は、この世とは別次元の存在であると考えられますし、

見えると言う事に関しては、現実のリンゴも夢も、全てが等しい意味を持ちます。

見える物は全て、別次元の意識世界・情報世界にしか存在できません。つまり、直接には接触出来ないのです。


だから、現実のリンゴ存在を把握など、誰も出来いのです。ただ、脳内情報が意味を作り上げ、その意味が自立できる自分を伴っている場合にのみ、クオリアも意識も存在していると感じ、リンゴが(別次元の情報世界に)あると自己満足的に思うだけなのです。


こういう意味で、私は、この世は全て自分自身が作り上げた“自己満足的な意味の世界”である、と考えます。