「意識な実在しない」 河野哲也著 講談社選書メチエ
の最終回。
私の実感ですが、
この本の内容にまったく首肯、共感できませんので、批評を書いていくと、だめ、だめ、・・と否定のオンパレードになってしまい、虚しく感じました。
で今日は色彩感から、
「空間色とは、グラスに入ったワインのように、空間が色彩で満たされているように見え、透明性があり、その背景の対象が見えるような場合を言う。つまり、三次元的な奥行きを持つ空間全体に色彩がついた状態である。
さらに、表面色、面色、空間色は、何かの対象が照明を反射した時の色であるが、これに対して光源そのものの色、光輝色というものがある。ギブソンは前者を反射光、後者を放射光と呼んだ。」
これは、色に対する、著者の認識を表わした物です、
「このように、色彩は、それを担う対象のあり方により、実に多様に現われる。しかし、色彩のクオリアという言い方をしたときには、このように現実の光が対象や空間と関わる複雑で多様な仕方がすっかり切り落とされ、何か単調な絵具のようなものに還元されてしまう。物体表面の色彩と光源の反射、光の色彩などが、すべて残像の色彩と同じであるかのように扱われ、クオリアと呼ばれる。」
「つまり、クオリアは、一見すると具体的な経験の性質を扱っているように見えて、実は知覚される世界の中の一断片を人為的に取り出したものである。」
これが、色とうい現象にたいする、著者のクオリア感です。
この著者のクオリア感に共感出来る人がはたして何人いるでしょうか、独断的なクオリア認識です。クオリアとは多くの人々が言うように、確かに定義しづらい概念です。しかしそれにもかかわらず、著者は断言します。
現実の光が対象や空間と関わる複雑で多様な仕方がすっかり切り落とされ、何か単調な絵具のようなものに還元されてしまう。
知覚される世界の中の一断片を人為的に取り出したものである。
クオリアは単調な絵具表現だけではありません、目に見える全てがクオリアと考えられます。
激烈なレーザー光も、しっぽりした夕日も、ピカソの絵画も見える者は全て、クオリアです。聴覚、嗅覚、触覚、全てがそうなります。
ですから、知覚される世界の一断片であるなど言われるのは、素人発言でしかありえません。どうしてこの様な発言をされるのでしょうか、理解に苦しみます。
次に極め付けで滑稽なのは
「色彩に関しても、大きく分ければ、主観説と客観説があったと言ってよいだろう、主観説とは、色彩は対象の実在的な性質ではなく、脳が生み出した主観的経験、クオリアだという物である。
しかし、これまでも論じてきたように、色彩を脳が作り出すクオリアだとしてしまうと、クオリアは、一体、どこに発生しているのか、それがどうやって対象の位置に見えるのかが、全くの謎として残ってしまう。そもそも、何故主観の内部でできたクオリアをもとにして、私たちは客観的世界で成功裏に行動できるのか。こうした謎、つまり、ハードプロブレムが解けそうにないとすれば、それは最初の設定が誤っているのだ。」
です。
少し長い引用でしたが、理解できましたでしょうか。
ハードプロブレムの設定が誤っている。
それは、ハードプロブレムが解けそうに無いからである。
だから、クオリアなど無い
という論法に見えます。
著者のクオリア感、ハードプロブレムの認識に対して、
偉そうな事を言っているように見えるかも知れませんが、私からすれば、いわゆる問題外であり、一々批判できるもので無いと思いました。
“ハードプロブレムが解けそうに無い”、とか“ハードプロブレムの設定が誤っている。”という表現をされているのですから、“ハードプロブレムとは何であるか”は理解されているでしょうし、クオリアについてもそれなりの理解をされているように思います。
“問題が解けそうに無いから設定が誤りだ”とは安易・短絡的すぎます。何の検討された後も見られません、プロの先生のお言葉ではないと感じますのは、私だけでしょうか。
ということで、この後の“意識は存在しない”は述べない事にしました。