ひさしぶりの、ブログします。前回の引き続きで、

「東洋の和で心脳問題は解けるか」大谷悟、の2回目。

今日は前回でも予告しましたように、道元の唯心論についての1回目。

この論が「東洋の知」となるはずです。どの様な論でしょう。


まずは第二章、“量ではだめである”のタイトル言葉。道元の言葉ですが、

そこには(正法眼蔵)、ものすごい事が書かれてあった!

悟りに至る姿勢についての教授があったあと、道元はいきなり、「量では駄目である」という。そして続ける。「量るということの手におえないのである」」と。


道元の言う“量ではだめである”とはどういうものか私はよく知りませんが、著者の先生は

「量では駄目」を、もし受け入れてしまうと、科学研究は成り立たなくなる。しかしその一方で、もう一つの広大な世界が開けてくる。」と言われます。

でも道元の言っている“量ではだめである”の説明がされていません。正法眼蔵に当たらないと、だめなのかなあ。


で、まず駄目な例、

“量の世界”・“客観の世界”であの有名なクオリアを解明する場合にどうするか、先生の想像では

「赤を想像して下さい」という注文をつけて、その時に脳細胞が示す活動と、まったく同じ条件のもとで、赤以外のものを想像しているときに脳細胞が示す活動とを、比較するだろう。このようにして、限りなく、「赤そのもの」に対して反応する脳細胞の群れを、つきとめてゆくだろう。そうしてそれら脳細胞の、脳内での分布、活動の頻度、活動するタイミングなどを、数量化してゆくだろう。さらにそれらを、座標軸上などに図示し、数式をあてはめたりして、抽象化するだろう。そしてこのような作業が、一応の完成を見たとき、科学者達は、「これらの脳細胞の、この種類の活動が、赤というクオリアを生んでいる」と結論付ける。」と。


私のイメージでは、多くの科学者は上のような結論で満足などしないはずです。そんなに安易でありません。皆理解しているのです。解明がいかに困難であるか、ですから先生のいった上の言葉に反感をもつのではないでしょうか。

この種類の活動がクオリアを生んでいる」という表現はなにも語っていないのです。この表現は、現在の脳科学の知見である「脳のこの部分の活動がイシキを生んでいる」というのに等しく、なにも言っていないのに等しいのです。ただ対応付けの解析がされているだけなのです。クオリアの解明には程遠いのですが、その他の脳の機能解明には役立ちます。

このように、先生の科学に対する姿勢に、不安を感じます。

でも、多分先生もわかっているのです、ただ文章を面白くするためにわざとそのような表現を使われたのでしょう。


そして、「ともかく、脳科学による心の数量化というのは、実利に富んだ方法である。感覚や感情の発生には、脳の中での物質の変化が伴っている。だからこの物質の変化を数量的に記述しておけば、次にはそれをもとにして、物質によって脳に働きかけ、物質によって感覚や感情を変えてしまうことができる。」と、脳科学の現時点での評価をされています。


で、それは、それで、問題の本質は

そもそも、なぜ、脳細胞の活動頻度の変化などが」、「赤」という感覚を生む事ができるのか」。なのです。

でも、先生はこの問題を直視せず、別の問題にすり替えて、ごまかしています。

私にはそう受け取れました。


そのすり替えの流れは、まず、脳科学は生活を便利にするのに大変役立つと。

でもそうじゃなく、クオリア・心を理解するためには、例えば悲しみについて理解するには、

もし、悲しみを深く理解したいと言うのなら、私なら、次の手段をとる。つまり、悲しみについておのずから考え、悲しみについての自己の経験をつんでいく。」と言われます。科学的アプローチではありません。

クオリアの解明が本題と思っていましたが、悲しみの経験をつむなどと、別次元の問題に変化させています。


さらに“悲しみ”も客観であると言われます。

つまり、“悲しみ”も“ボール1個”も、「私たちが、感じる対象の、その空間上の広がり、つまり「延長」に注目することに過ぎない」から「数・量がもし客観なら、実は全く同じ権利において、悲しみも立派な客観です。


「このボールが1個」が「客観」であるというなら、「この音楽が一つ」「この香りが一つ」「この悲しみが一つ」も「客観」であると私は言い返す。それに付け加えて、こうも言うだろう、

対象の、視覚でとらえられる一部が、それを捉えている心の原因となることはできない。


上の言葉の最後「対象の、視覚でとらえられる一部が、それを捉えている心の原因となることはできない。」は取ってつけたような、唐突な言葉で、何が言いたいのか良くわかりません。視覚の感覚が心の原因ではないと言うことか?


でも、先生の今日の結論は

こうして、視覚・延長の偏重という信仰を捨て、数・量特別視の偏見から自由になると、もっと広大で、もっと深い世界が、開けてくる。それは、私たち東洋人が培ってきたであろう世界、時間の世界である」。


この結論を読むと、先ほどの唐突な言葉もある程度理解できます。つまり空間の世界=視覚の世界じゃなく、時間の世界が心の原因になると。時間の世界で心を解明できると。


前回には、空間が時間を凌駕しているのが西洋文化であると、先生は言いました。思い出して下さい。

でもそんな単純じゃないと思うんだがなぁ。


そして、この時間の世界が、道元の唯心論でしょうか?時間は東洋の特別品か?

次回をお楽しみに。