今日は前回に引き続き主観的世界を追究していきます。

「他者の心は存在するか」の最終章を中心に進めます。


主観的世界では「さまざまな感覚情報が立ち現れては消える。「見える」「聞こえる」などの外界の知覚が存在する。また痛みなどの感覚も存在する。さらにものを考える思考や、喜び・悲しみなどの感情なども展開される」とし、


著者は

ここで、主観的感覚世界について、一つ重要な区別をしておこう」として

誤りうる感覚と誤りえない感覚」を提起されます。

感覚に二つあるとの主張です。


具体的には、誤りうる感覚として、

今、ある人から少し離れたところに一本のひもがある。この場面を見た人が、このひもをヘビと見間違えたとする。このとき、この人は、ヘビの視覚的なイメージが感覚されている。しかし、その場所に近づいていってよく見ると、それは一本のひもにすぎなかった。するとこの人は、ああ私が見たあのヘビのイメージは、実はひもの見誤りだった、と思うだろう。この時、この人はひもの視覚イメージを感覚し、過去のヘビの視覚イメージを「誤った感覚情報」として訂正することだろう。


一方、誤りえない感覚として、

私は、「たとえば、急なランニングなどを行なうと、よく左肩が痛くなる事がある。・・・・その左肩の痛みは急速な運動によって心臓に負担がかかり、心臓が痛みを発しているのだが、心臓からの痛みの情報を伝える神経が左肩を通っているため「誤って」左肩が痛いと感じる・・・このような説明を受けた後でも、私はやはり左肩に痛みを感じ、この痛みは誤りであると考え心臓に痛みを感じるようには決してならなかった。

と。


以上の違いの理由として、著者は

視覚イメージが痛みの感覚と異なっているのは、時間的な未来のどこかで「訂正」という作業がおこりうるという点である。」と、訂正という言葉で解釈をしなおしています。

訂正できるか、出来ないかの違いです。


そして、その次に新たな問題提起として

なぜわれわれは。「見え」などの感覚情報については訂正をおこなうのに、「痛み」などの感覚情報については訂正を行なわないのだろうか。

と。


この理由として、著者自身の説を展開されます。

そのためにまず、

何らかの感覚情報が「謝りである」と認識できるためには、過去のある時点での感覚情報と今現在手元にある感覚情報とを並列比較し、その一方を何らかの基準によって選択するようなメカニズムが必要となってくるだろう」という仮定で

まず一つ目のシステムとして、過去の情報を保持しておく記憶のメカニズムを持たねばならないだろう」。

もうひとつは

現在の感覚情報

そして、最後に

もう一つ必要なものは、二つの矛盾する感覚情報を選択する何らかの基準、つまり「世界はこのようになっているハズだ」というようなモデルだ。

の枠組みを提唱されます。


その枠組では、“見る”という感覚は

連続する今、今、今のさまざまな感覚情報を、一つの感覚情報へと半ば強制的に統合し、一貫した仮説的なモデルを作り出す。

一方“痛み”の感覚情報はそうではない。

連続する痛み、痛み、痛みは決して統合されず一貫したイメージを形成しない

と結論付けます。


さらに、流れはこの二つのちがいに着目し

この二つの違いは機能的にどんな意味があるのだろうか」とさらに問題を提起し、結局

おおざっぱに言ってしまえば、よりうまく生きていくために、一貫したイメージを作り出したほうが便利な感覚情報とそうでないものが存在する」と言い切ります。


そして一貫した仮説的なモデルの場合には

いわゆる外部世界、客観世界、物理的世界を作り出す事に関わっている。」

一方、創でない場合“痛み”などの場合

内部世界、主観的世界、を作り出すことに関わっている。


つまり

生物は、さまざまな感覚情報のうち、ある特定のグループのものについて、強制的に一貫した恒常性を作り出すことで、外部世界という仮説的な世界を作り出した。一方、そうした世界を作り出すことに無関係な情報はそのまま置き去られ、われわれはそれを「内部世界」とよぶ。

と言うのです。


そして

もともと連続する今、今、今を構成するものとして並列されていた「ヘビの視覚イメージ」「ひもの視覚イメージ」「左肩の痛み」「心臓の痛み」などの感覚情報のうち、前二者についてはそれらを統合し、一つのものとして扱うように生物は進化した、とも言える。この進化を、もともとあった外部世界を生物は発見したのだ、ととらえることもできるし、生物は外部世界というフィクションを創作したのだ、ととらえることもできるだろう。

ただし重要な事は、より原初的な認識の形態とは、訂正されることがない連続する今、今、今としての感覚情報が並列されているという状態であり、外部世界とはあくまで生きていく上でのメリットから生じた派生物であるという点である。」と。


このように、感覚情報から、“私”及び“外部世界”“内部世界”をとらえ、主観客観、そして他人の心を説明しています。



私は以上の著者の説にはまったく納得出来ません。


まず、“痛み”感覚が訂正できず、“見え”の感覚が修正できるという認識が間違っていると思います。

“痛み”、“見え”の二つの感覚とも、感覚が生じたその時はその感覚が事実であり、そしてそれらの感覚のイメージが記憶されるのも同じです。

ですから、ヘビを見誤ったとして、訂正するのは、今と・記憶の感覚を比較して、どちらが正しいかを選択した結果の判断です。今も・記憶もその時点での感覚は正しいのです。


ですから何も標準的な世界があってそれに照らし合わせるのではありません。その時その時が現実なのです。今も・記憶もどちらも標準的世界なのです。

そして“見え”などの記憶の感覚を訂正などできません。感覚を訂正するのではなく、現時点での判断を訂正するだけなのですから。


次に、“痛み”と“見え”のクオリアが異なるように捉えていますが、その必要は無いと思われます。“見え”の感覚は時間的、空間的モデルに基づき、過去と未来を構成し、“痛み”の感覚は予測モデルを持たず、今、今、今の連続と著者は差をつけていますが、私が感じる“痛み”は、時間的、空間的、かつ過去と未来を構成しているので“見え”の感覚とは変わりがありません。痛みの場所も痛みの時間的変化も、痛みの記憶も厳然と存在していますから。


ですから、差が付けられた“見え”のクオリアで、外部世界が作られていると考えているのは、完全な間違いです。感覚が生じた時点で、全てが意識の外部世界であると認識すべきです。


つまり、物理的脳活動が、感覚を生じた時点で、それが外部世界になるのです。ですから、意識が異次元の世界現象であると言われる所以なのです。

著者の主張しています外部世界・内部世界などありません、完全な認識間違いをおかしていると思います。


そのほか、言えばきりがありませんので、これで止めておきますが、

私の言っている事がおかしいのか、著者の言っているのが変なのか、は各人が実本にあたり確認していただければ、と思います。