今日のブログは「他者の心は存在するか」の最終回で“心身問題はニセの問題”ということについて。

この言葉は、著者が言っている言葉で、これの真意を探ります。


前回までで、著者は感覚イメージが外部世界、内部世界を作り上げるとの主張しています。「痛み」、「見え」のクオリアも異なる、感覚の記憶も異なる、ということでした。そして感覚が訂正できるものと、出来ないものがあると。


で、私はそんなことは無いと、書きました、縄をヘビと見誤ったとしても、ヘビと見ていたときのヘビの感覚はなにも誤っていず、たしかにヘビと見えているのですから。その感覚は訂正できません。訂正できるのは、判断内容だけです。


そして、今日のテーマ心身問題については、著者はまず

常に正しいのは、今ここにある感覚情報だけである。」とまず前提を確認します。つまり感覚情報だけで全てが説明できるという事です。私の理解違いでなければ、ドイツ観念論もこの考え方です。いわゆる“コペルニクス的転換”です。

外部世界があろうとなかろうと、その存在を実証できない。勿論他人の心も。感覚情報が創り上げる。そしてここで言う“実証”とはどういうことか、などが問題になるのですが・・・


で、著者は

もしこのように考えるならば、心身問題、あるいは主観の問題とは、ある誤解もしくは転倒した発想によって作り出されたニセの問題であることに気付くだろう。」と。


これらはすべて、物理的外部世界というものを、すでに存在するものと前提することによって発生するニセの謎である。・・・・なぜ物質から心が生み出されてくるのか、と問うのではなく、まず心があって物質とはモデルにすぎない、と考えるべきだ。

また

唯一存在するのは、「心」という形式で統一さえされていない感覚情報のみである。・・・このような考え方は「唯感覚情報論」あるいは「感覚情報一元論」とでも言う立場である。しかし、物質をこの感覚情報に還元する、という発想をしてはならない。物質などはただのモデルであって、正しいものとしてわれわれの手元にあるのは感覚情報だけなのだから。


かなり、強烈な主張です。


モデルとは、存在状態全体から理解できる全体感とでも言えるでしょうか。物質などは、感覚情報で理解できた全体感であると。

この考え方は、インド仏教の唯識その物です。


そして、常識的な世界感にたいしては

われわれはすでに過去も未来も知っている。あるいは疑いようもなくそのモデルをもっている。また、他者も自己の身体も知っている。そうしたすでにできあがったリアリティからしか発想できないようにできている。そして、このすでに出来上がり仕組まれたリアリティの上にわれわれは集団を作り社会を構成している。ある意味でこれは、本当は存在しないかもしれないウソの上に成立するホントであると言えるのではないだろうか。」


そして、最後にのこる謎については、

こうして最後に一つの謎が残るだろう。感覚情報とは何なのか。それはどこから来たのか。なぜそんなものがあるのか。」と。


そしてその答えとして

私は、この問いには意味が無いと考えている。意味がないというのは、もし感覚情報が存在しなければ、世界など存在せず、ただののっぺらぼうがあるだけだからだ。

感覚情報はまず与えられている。それは世界を構成するすべての出発点だ。その起源を強引に問うことは、ビッグ・バン以前の宇宙を考えるというのと同じくらい意味がない、あるいは同じくらい困難なことだ。」と。



私が考えるに、意識・心身問題を考えている科学者であれば、以上のような唯心論をすべて理解した上で、さらにその上層の世界(著者の言うウソの上に成立するホントの世界)で意識・心身問題を考えているのです。すべての学問がそうであるのと同じくらい意味があるのです。


そしてそれは、ビッグ・バン以前の宇宙を考えるというのと同じくらい、あるいは同じくらい困難なことなのです。


ですから思うに、意味がないと言う著者は、判断停止・思考停止に落ちいっていると。


(完)