引き続き

「脳の世紀」森崎信尋を。


前回は、脳の辺縁系の重要さを見て行きました。また、辺縁系の本能・感情だけでなく、理性の元の大脳新皮質との協調が大事であると。


今日はその具体例として、芸術美について

本書は芸術を脳科学の成果をもとに論ずるという大胆な試みを行なう。芸術には芸術創造の面と享受の面がある。ここでは特に、芸術享受の面から述べる。」として、「美」について、書かれています。


まず“美とは何か”と言う事でカントの美学を引用します。カントの美の判断は「判断力批判」から、「対象に対して、「快・不快」による「情感的判断」であると言う事だ。」といって、これを脳機能の当てはめます。

さてこのカントの記述を脳科学的に翻訳するとこうなる。「美」の判断は「情感的判断」というのだから当然、「美」は「辺縁系」で判断されることになる。

それ故、「辺縁系」で最も重要な<扁桃体>での、イエスとノーの「情動的判断」が先行することになる。勿論イエスの判断系列による「辺縁系」の神経反応が「美」なのである。ノーの判断系列や無反応の場合は「美」とは感じられない。「判断力批判」から有益な美学はこれだけに尽きる。」とします。

扁桃体は恐怖などの情動をつかさどる部位であると、知られています。先生は快・不快も扁桃体の反応によるとの知識をお持ちなのでしょう。


さらに、カントの他の記述、「飾りは「美」の要素ではない」とか、「色彩のみならず絵の奥行き感や運動感も絵の「美」の要素でない飾りだというのだ」とかは間違っており、「カントは「美」を芸術にかぎらず、自然美をも含めている。そして自然美が芸術美より優位にあるとする。これは芸術美が自然美を凌駕している、逆転した現代では全く受け入れられない」と、けなしています。

本当のことは「判断力批判」を読んでない私には判断がつきません。


そこで以上の結論として先生は、「ここでの結論は、カント美学の限界はあるにせよ、「美」の判断は「辺縁系」の神経反応である、ということである。ここに、はっきり言える。「辺縁系」の神経反応は「美」的判断の必要条件である、と。但し、十分条件であるかは不明である。」と。


以上、カントの美についての先生の対応ですが、先生自身の「美」の定義はありません。これでは只の追従です、新しい観点が欲しいところです。


次ぎに、美しいばかりが芸術ではありません、そこで「美しくない」芸術として、

ベートーベンの音楽は一般には「美しい」とは言えない。「運命交響曲」の出だしの「タタタターン」という劇的なフレーズは、お世辞にも「美しい」とは言えない。」と言い切ります。


その原因として、ギリシャ悲劇の例で説明します。「肉親を「殺し、殺される」悲劇とか、近親相姦とか、英雄の死の刺激は本来扁桃体でノーとされる性格のものである。」これがなぜ芸術に取り込まれたのか、

一つは芸術享受における享受者と現実との距離による。・・・これは本当でなく、他人事だから安心してよいという情報が大脳新皮質から「辺縁系」にインプットされる。この余裕が、扁桃体での「情動的評価」をノーからイエスに変更する。」と言う事らしいです。

他家の火事は美しいとか、他人の不幸は蜜の味なのでしょうか?


さらに、最近の芸術に対して、

「辺縁系」は学習する。クラシック音楽を始めて聞いたとき、何がなんだかわからなくても、やがてその良さがわかってくる。」のであるから、

あらゆる芸術は、特に新しいものは、扁桃体を含む「辺縁系」に学習させないと「美」の享受につながらない。」と常識的な表面的な結論を述べています。


これらの結論で、先生の当初の思惑である

芸術を脳科学の成果をもとに論ずるという大胆な試みを行なう。

ことが達成されたのでしょうか。


なんだか、私はあてがはずれた気がしました。もう少しましな事が書かれていると期待していました。先生の論はただ、心理現象と脳活動部位を対応させ、すこしの感想を述べたに過ぎないのではないかと。

この思いは、私の大間違いなのでしょうか。