「脳の世紀」の最終回ブログです。


この本の総体的な感じとして、脳の「辺縁系」と「前頭葉」・「大脳新皮質」の協調を強調されているのが分かります。それは、理性、本能、感情の正確な・正しい認識を要求していると思われます。

理性だけではだめで、本能・情感のサポートが必要である。もっと感情を大切にしなければならないと。前回の芸術美にしても、「辺縁系」の情感の良し悪しが基本であると言う事でした。


これらの内容がどの程度、新しいものなのか、はてまたいわゆる常識的なものなのかは、よく知りませんが、読んだ限りにおいて納得は出来ました。



さて、今日は信念について

信念とは「固く信じて疑わない心」のことであった。それ程に確信しているわけであるから、信念というといかにも合理的で正しいもののように聞こえる。

という一般論に対し

まず言っておこう。真理と合理性は信念形成にとって必要条件でも十分条件でもない。信念と心理は別のことである。

と。


でも、1+1=2という信念は、真理でもなく合理性も無いとは思えません。先生の主張には、なにか抜けがあるのでしょうか。

確かに、吉田松陰の持っている信念は、真理でもなく合理性も無いかもしれません。翻って私の持っている信念も、解析したことないのですが、ある程度はあやふやです。


でも大事なのは、このように信念と言ってもカテゴリー分けが必要だと言う事です。


それはそうとして、先生の言いたかった事は、

信念の根拠・源泉や信念そのものが無意識化するという点が、信念論では最も大事である」ということ。


そして

信念には内容面とそれを生き生きと賦活する「エネルギー」的側面がある。

として、その2面のうちの一つが「大脳新皮質」、もう一つが「辺縁系」ということらしいです。

内容面の多くは大脳新皮質=理知脳による理性によって与えられる

「エネルギー」は「辺縁系」から与えられる」のだそうです。


確かに、“ある信念”にとってはエネルギーが必要です。例えば、松陰先生のエネルギーはすごいものだと思います。


このように、信念も「大脳新皮質」と「辺縁系」の協調が言われます。そして具体例も書かれています。科学・倫理・宗教の信念についてです。詳しくは実本を読んで欲しいのですが、要はこれらの信念に「辺縁系」の活動が絡んでいるというストーリーです。


で、気になった点。

倫理とか宗教の信念と、科学の信念は少し異なると思うのですが、先生の主張は「科学的実証は、例えどんなに高級な、あるいはハイテクな機器を使おうとも、最後の確認の所で必ず五感を必要としている。・・・そう言う事で、科学的真理もまた我々の感覚に依存している。感覚のリアリティは「辺縁系」に依存していたので、大脳新皮質の理性機能の一つである科学もまた、「辺縁系」に密かに支えられている事になる。」と。


これなどは、お門違いの論理を駆使していると思います。

と言うのは、先生の言う「辺縁系」の活動も大切ですが、

大脳新皮質の理性機能の一つである科学もまた、「辺縁系」に密かに支えられている事になる

と言うのは方手落ちで、心臓の働きで大脳新皮質の理性機能が密かに支えられていると言う事も主張しなければなりません。「辺縁系」が科学的信念を支えているというには弱すぎます。



そして最後に、先生の私見が書かれています。情操教育=「辺縁系」教育について。これは脳科学と関係ない点ですが、あえて述べられていますから、先生の信念が入っているのでしょう。

人類は知的教育のみならず情操教育も必要としている。理知的教育とは違って、「辺縁系」的教育は直感的に言って困難を極めるであろう。「辺縁系」は教育の仕方によって個人的、社会的、人類的意味での悪にも善にもなろう。狂気にも救いの天使にもなろう。情操教育は、道徳的押し売りの硬直した偏った「辺縁系」教育ではダメだ。集団でやるような教育では本物にならないであろう。」と書かれていますが、ありきたりの表層的な論です。情操教育が大事だとはわかりますが、ダメだと否定的表現が目立ち、こうすればよいという肯定的表現が見られません。この肯定的表現が大事なのですから。

「辺縁系」が大切であるから、“これこれこうしたほうがいい”とかの前向きな提案です。



以上のように、粗い論理によって組み立てられた書籍と思いますが、私の勘違い・思い違いかもしれません

従って、この判断は、各自、実本で御願いします。


(完)