仕事が終ったあと家での時間とか、休みの日にすっと本を読んでいます。いや、ブログも書いているかな。

で、ライフワークの“意識の探求”のほかに、最近は宋学の勉強に時間をかけており、いまは二程全書に取り組んでいます。この本は台湾で購入した本ですが、幸いにもこの本が日本・江戸時代の刻本の印影本でしたので、文章に返り点などが打たれてあり、私でも何とか辞書と首っ引きで読めます。が、基礎知識が貧弱なため、理解に苦しんでいる現状です。


引用が多く、少なくとも四書・五経は勿論、道教、仏教の知識から、その当時の雰囲気までが求められます。


と言う事で、「宋学の形成と展開」小島毅著 1999年 創文社刊という本も、借りて読んでいるのです。



さて、私は毎月、岩波の「図書」と、筑摩の「ちくま」という宣伝雑誌を送って貰っていまして、その「図書」の4月号の中に書かれてある記事に眼が止まりました。

“「天変地異の思想」若尾政希”です。


その内容は、表題が示しているように、昨年の大地震関連の文です。そして著者の経歴が書かれていないので、どういう方なのかは存じませんが、文末に(わかお まさき・日本近世史・思想史)と書かれてありますので、多分そのご専門であると思われます。

「図書」を購入されている方は是非読んで下さい。

この内容のコメントを、今日ブログにします。


で、読めない人の為、最低限のあらましと、本文の雰囲気を伝えるため引用を以下に。


先ず、この文稿の主旨は「この列島の住人は・・・天変地異にいかに対応し、どのような天変地異観を形成してきたのか・・を描いてみようと思った」ということで、


その具体的内容は、

今これを改めてとりあげたいと思った直接のきっかけは・・「日本人のアイデンティティーは我欲になった。政治もポピュリズムでやっている。津波をうまく利用してだね、我欲を1回洗い落とす必要があるね。積年たまった日本人のアカをね。これはやっぱり天罰だと思う」」と言った石原都知事の発言から始まります。

実は阪神・淡路大震災でも同様の発言をした人がいた。・・・「5000人を越える犠牲者を出した阪神大地震は、日本が悪魔に経済を使って仕えてきたために下った天罰である。」この発言はリビアのかつての指導者カダフィ大佐のもの。


そして、次のステップで問題を提起されます。

石原氏は独善的・独裁的政治手法から「東京のカダフィー」と言われているようだか、まさかカダフィーにならったわけではないだろう。では何に依ったのか」ということ。で、「天変地異をめぐる通念・常識を考えたい」と提起されます。


そこで、関東大震災の例を。実業界のドンであった渋沢栄一の言葉「天は国民を戒める為、こうした大事変を起したのではないかと思ふ」を持ってきます。「関東大震災を、華美に流れ遊惰に陥り、自己の満足安逸のみに走り粗末な怪しげな知識を持ち出す、そうした「国民を戒めるための天譴(てんけん・てんからの咎め)か」」と言う事です。


ここで“天譴”と言う言葉が出てきました。筆者がこの言葉を、こねくり回します。

渋沢は昼夜兼行立ち働いた。復興の中心となって活躍した。

発布された摂政の詔書も、渋沢の見方と一致するもの。

石原発言とは異なり、渋沢の天譴論は通念・常識となった。

しかし、批判もある。

芥川は・・「天譴説を真としたならば渋沢栄一先生などは真先に死んでもよさそうだがね」・・「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなど信ずることなかれ」と。


私は以上を読んで、今読んでいる本「宋学の形成と展開」を思い出しました。丁度その本の冒頭に天譴論が書かれてあるのです。

宋代と言えば王安石の新法が思い出されますね。この新法の批判派達が使った論として、この本に天譴論が紹介されているのです。反対派には司馬光を筆頭に、程伊川もいたとか。


イナゴの大群が大発生し、その後降雨なく凶作になった。これは大臣達が道に外れた政治を行っているからだとし、「現行の政策を中止し、和気を呼び寄せて天の心にこたえ、陰陽をととのえて雨をもたらし、天下万民を塗炭の苦しみからお救いください」と上奏があった。

宰相王安石の改革プラン・新法の反対派の上奏文です。天譴が下ったから、新法を取りやめて下さいと言っています。


王安石はこれに対し「イナゴ害や旱魃は気象のなせるわざ、新法自体と関係ない」と。具体的には「洪水や旱魃には定め(定数)があり、堯や湯のような聖王でさえ免れることはできませんでした。陛下の即位以来七年間ずっと豊作が続いてきたのですから、今年たまたま旱魃に見舞われたというものの、きちんと政治的に対処してこの天災に対応すればそれで充分、わざわざこのためにお心をわずらわせることはありません」と神宗に述べたと言う。正論です。


この後、この本の著者は、

王安石はこの時は天譴論を無視するような態度をとっているが、ところ変われば天譴論を使い自分の考えを主張すると。都合のいい時に都合の言い論を使う。矛盾するのです。

また、新法反対派も真面目に天譴論を信奉しているのでなく、都合のいい材料として使っているのではないかと。

しかし、天の命で政治を任されている皇帝のとって無視できない論である事は確かです。だから皇帝は、天意に逆らわず懼れ修省しなければいけないのです。


でも、最終的には王安石は失脚します。



それで話を日本に戻し、作者は

天の思想によれば、天変地異は天命を降して統治を委任した天子の悪政に対して、天が譴責として降ろしたものである。天が民衆に天譴を降ろすなどと言う事はありえない。民衆に天譴が降ったという渋沢の天譴論は、本来の天譴論から逸脱したものなのである。」と言います。その通りでしょう。


そして、この天譴論の日本での取り扱われ方が、述べられ、日本独特の環境で天譴論が変化していった事が書かれています。


天譴の対象が、上様(将軍)から国王(藩主)へ、さらに家老、士、藩役人、上層農民と下降して行ったと。理由も書いていますが、ここでは省略します。


果ては、身分の相違に関係なく、天道は個人の運命を司るものとされ、「近世人は天道を意識し天道との関わりで自己を律し、自己を意義づける事によって、自らの思想を形成してきた。「お天道様に申し訳ない」等という言葉を聞くと、はっと思われる方も多いにではないか。」と結論付け、


締めくくりは

前述の、渋沢の天譴論をよく見ると、・・天皇の統治はつつがなく行なわれていて何の問題も無い、よって天皇への天譴であるはずはない、だから華美・遊惰にふける国民への天譴だと結論づけているのである。くやしいことに、いわば近世以来の民衆の思想的達成を逆手にとって、民衆への天譴論が説かれ、人々に受け容れられてしまったのである。」と。


作者は、関東大震災の時、民衆への天譴論が民衆に受け容れられてしまった事を、くやしいと言います。また、今回の石原氏への思いもそこにあったのでしょう。



でもこれが「天変地異の思想」でしょうか?

昔であればともかく、いや昔でさえだれも、天変地異が天による譴責であるとは考えていません。宋の時代でも、政治の駆け引きに使われ、だれも本心で言っているとは思えません。


渋沢栄一もそうでしょう。ただこの様なときこそ、身を引き締め再建に当ろうと思ったのです。だから先頭にたって、昼夜兼行頑張れたのです。

そして、日本は再興したのです。

また、芥川もそれを分かっていて、茶化し、彼特有の表現をしたのでしょう。渋沢栄一先生などは真先に死んでもよさそうだがね、と言うのですから。


そして、石原知事の発言、真意は分かりかねますが、かれも、彼特有の表現をしたのでしょう。でも、その裏には日本をよくしたいという思いが見れます。震災瓦礫を引き受けたのだから。

日本の経済・景気を考えず、原発反対といって大衆に迎合している、知事とは違います。


そして、カダフィー大佐の発言。これなどは、私には情報が全くありませんので、この事だけで何も言えませんが、少なくとも、日本に好意ある発言ではありません。だから、この発言と石原都知事の発言を同列にあつかう作者の態度は間違っています。

同じ発言でも背景・内容が異なります。


この様に、少なくとも現在では、天から下された怒りの鉄槌など誰も信じていません。

が、そんな事はどうでもよく、多くの日本人は、違った角度から状況を判断し、あえて自分の姿勢を正したいという思いを持つのではないかと。


そして、じつはこの事は、事中の中にいる人、すくなくとも自分が同類であるという思いを持った人でしか言えない言葉なのです。他人が言うと空々しくなります。


例えば、尼子十勇士の山中鹿之助を重ね合わせるのは、

私がそれをすると、おかしい事になりますが、

震災に遭われた方が、重ねるのは誰も咎めません。


石原都知事はまちがったのか、この距離感を間違わないように。


(完)