暑い毎日が続いています。ロンドンも暑いだろうが、大阪も暑い。特に僕の部屋は暑い、クーラーが無いから夜寝にくい。周りは「買え買え」というが、特に欲しいと思わない。夜寝られなくとも我慢できる、熱中症になるほどの年でもないし。

そして、節電をしようと思っているのでもない、節電を声高に叫ぶのは愚の至りと思っているから。それより原発再稼動を声高に叫びたい。


本題:

まえから、意識の謎を追究している中で、<私>とは何かを考えています。哲学的な<私>ではなく、物理的な<私>を追及していますが、確実な満足できるまでにはいたっていません。それで世の中の思想家・科学者・知識人の<私>に対する認識を調べているのです。


で、今日は

「意識としての自己」梶田叡一著 金子書房 1998年

を読みます。

少し古い本なので内容に不満点が多々あるのですが、表題につられ読みました。意識と自己の関係がかかれてあるのだろうと言う事です。


本書の目的は、「<自分>探求にどの様な意味があるのか」。具体的には「<自分>とか<自己>にこだわることに、<自分>や<自己>を原点とし原理として考え、行動し、生活する事に一体どのような意味があるのだろうか」とあります。

<自分>探求にどの様な意味があるのか」に対する考察で、「<自己>とは何か」の探求は副次的な問題となっているようです。

つまり、世の中をどう生きていくかの処世術的な要素が多く語られているようです。


しかしそうは言っても、「<自己>とは何か」がまず問題になり、いつものデカルトが登場します。著者が言うデカルトの<私>とは、「<私>とは、と考える働きそのもの」といいます。考える働きですが<私>なのです。


ここで、著者はデカルトの<私>を微小なものとして反論します。著者はウィリアム・ジェームスの威をかり「最も広義には、その人にとっての私(客我)とは、その人が自分のものと言いうる全てのものの総和である」、つまり、自分の家族、仕事等々を含めた全体だ、と言うのです。


このように、自分にこだわる事にどういう意味があるのかという設問の真意が明らかになりました。つまり、全体の中での自分をどう考えるべきかの処世術的な問題に転換しました。

具体的には「私たちが強くこだわらざるを得ないのは、自分が他の人達にどう見られているか、ということだけでない。・・・私たちの生涯は、<私>にとっての「利益」というこだわりに貫かれたもの、と言っても過言でない」とすごく世俗的な視点に目が行ってしまっています。


次ぎは、その私の主人公は誰かと言う問いに移ります。「私自身の主人公は本当に私自信なのであろうか」ということです。

すると「何か大きな力が自分に働きかけて、こういうさまざまな思いを自分の頭にもたらしているということは無いであろうか」との思いにいたります、

結局「この<私>を越えた大きな何者かを想定してみたくなるのではないだろいか。つまり、何らかの意味での普遍的な「一般者」の存在を考え」て、

この小さな<私>という存在は、そうした「一般者」を構成する一つの「装置」であって

<私>が追及し達成しようとしているところは、「一般者」が本来的に持っている広大な時間的空間的可能性の広がりのごく一部を追究し現実化している

勿論この一般者を「大自然」とか「世界」とか「神仏」とか呼んでみてもよい」と。

つまりは、「大自然」のなかで生かされているという認識の下、こだわりに貫かれた自分個人及び自分を取り囲む中での、自分をどのように捕らえるべきかと言う問題を提起されています。

以上がこの本のバックボーンです。


この「大自然」のなかに生かされているという思想は、多くの宗教家とか思想家がすでに言いつくしたことで、なにもことさらどうのこうのと言う事はありません。

しかしあえて著者はこの思想をベースに新しい展開を企てようと考えているようです。

そしてその後の展開は社会学的展開が拡げられ、かつアイデンティティにまで敷衍されます。


例えば、「私たちは自分自身について一定の<公理>ないし<公理系>といった意識の枠組みを持ち、それを大前提として生きていると考えられるのである。」と数学界で使われる公理を持ち出し論を展開していきます。公理と言う名の基本的枠組みのなかで生きていると考えています。


この公理系のあり方に着目するならば「新しい視点からの文化や社会の研究に着手する事が可能となってくるのではないだろうか」と逡巡しながら提案しています。


この本を読んだだけの私の感想ですが、著者の<公理>による、社会認識、個人認識は失敗していると思いました。


なぜなら、公理という名称を社会生活の中に持ち込んだだけで、

そして公理とは名だけのもので、それだけで世界を創れるものではないからです。

事実公理から、世界全てが発展的に説明出来なければいけないのですが、その説明が全く不十分です。著者の示した公理の例で世界が出来上がっているとは到底思えません。


全体の結論としては、「<私>とは何か」という基本の認識が著者の認識と私のが異なっており、その結果問題意識が全く違っている事が判明しました。

でもこの事は、著者には責任がありません、ただ私としては「意識としての自己」との表題に沿った、自己と意識の関係を哲学的に掘り下げて欲しかっただけです。