今日は、「言語から見た意識」信原幸弘の批判を行ないます。


前回の概要として、

意識のハードプロブレムの答えとしては唯一のものとして「志向性」という考え方であるとありました。(詳しくは再度前回のブログを読んで下さい)


先生は

1、意識を表象として捕らえ、

表象は志向的特徴と内在的特徴にわかれ、

志向的特徴は意識経験・クオリアであり、

“意識経験・内在的特徴はよく分からないけれど、脳状態が対応すると考えてよい、”としています。

2、次に“意識経験・クオリアとは何か”に移り、

意識経験が物理的に説明出来ないと言われているけれど、そうでは無い、

それはつまり、機能だというのです。

表象が何かを表わすということは、表象がある一定の機能を持つ事にほかならないのです。」と意識経験は機能であると主張されています。


先生の主張を私なりに理解すれば、“クオリアとして私が意識できるのは、脳状態の機能である”と言う事です。


以上が前回の概要ですが、


1、の“意識経験は、その脳状態に対応している”と言う考え方は、常識として社会に認知されており、私はこの事に対し首肯しますが、アプローチとしては、天与的でなく進化論の説を使います。

つまり、

進化論の考え方によると、地球材料から発生した初期生命体は、物理的因果律のもと変化をし続けたというものです。

この変化は“生命体の種の継続と個の保存をまっとうする為”に、使える物理現象全てを動員させたと考えられます。すると意識も生命体の進化の過程の一成果であって、種の継続と個の保存のために使われていると考える事ができ、脳活動(生命体の活動の司令部)がつくりあげていると考えるのが正しい、と思われます。


つぎに2、の“表象の機能が意識である事”について、

少し意地悪なことをいえば、

脳活動のある状態が、ある機能をはたす、つまり意識を作りあげているということですが、

言葉をかえれば、脳活動が意識を作っているという、平凡な答えと同じレベルでしかないのではないか、と言う事です。

この“脳機能論”については、たしか私の記憶間違いがなければ、養老先生も同じ事を言われていたのではないかと思います。


しかし深読みすれば、信原先生の機能論はもう少し掘り下げられているようで、「要するに言葉の意味はその使用によって説明出来るのです。」というものです。

これを、私なりに理解しますと

クオリアの意味はその脳活動の使用によって出来上がるのです、となり

その脳活動の使用とは、脳全体の中である脳活動が意味を作り上げていること、あるクオリアはある特定の活動であり、脳全体の活動の中で決められたもの。

と解釈しました。


タバコがタバコであるのは、タバコだけで決まるのではなく、ぞの環境の中で決まるものである、ということと似ています。


以上までは、私も納得しますが、

“あのクオリアである、例えば痛い・明るい”などは私と言う主体があっての物です。必ず主体が絡んでいます。先生の志向説にはこの主体をあつかっていません。ただ「表象が何かを表わす」と言っているだけです。

この主体を無視している点は、先生の考察に不足している点だと思います。


そこで、私が思うに、

表象という言葉を使うとき、また情報とかの言葉を使うときには、必ずその意味とその意味を理解できる主体をまとめて考えなければいけません。

“猫に小判”の例えのように、主体が変われば意味も変わります。ペアで考えないといけないのです。意識を考慮するには、必ずこの主体が脳活動においてどう関わっているのか、どのように主体が作られるのかを考えないといけないのです。外部の人間・第三者が脳状態を観測して、この活動がこのクオリアに対応していると言っても意味がないのです。


従来の多くの識者はこの事を抜いて、意識がよく分からないと繰り返していたのです。


私は「意識の謎への挑戦」文芸社 野口豊太著、にこの意識に対する原型を見ました。この本は、読んで損のない本だと思います。


いずれにせよ、意識は自分が感じているのだという、この不思議さを解決しなければ、いくら脳の機能であるといってもらちがあきません。

意識が“私が感じている”と思う為には、“私”は意識の中にいなければいけません。

意識を外から見るという設定は、いままで多くの人たちが“脳内ホムンクルス説”とかで、ダメだと言われてきました。

ということで、上述の言ではありませんが、

外部の人間・第三者が脳状態を観測して、この活動がこのクオリアに対応していると言っても意味がないのです。

脳活動の中に情報の物理パターンが出来あがり、そしてそこに意味が湧きあがり・出来上がり、その意味の中に自己が入り込むということでないといけないのです。


言い換えますと、

脳内神経活動に意味がついてくる。

この意味は観測者・第三者が感じる意味ではありません。その神経活動と繋がっている筋肉活動、身体全体から湧き上がってくる意味で、活動しているその物、身体が感じられるのです。(全体でしか意味は出来上がりません。個別の活動は、単なる物理活動です。)

従って、この自然に湧きあがってくる意味は、表象という概念では捉えられません。そして、意識という主体を持った意味でしかこの意味は外に現われる事は無いのです。

(このあたりの考え方は、まだ認知されていません。物理パターンとは何か、意味とは何か、湧き上がるとはどの様なメカニズムか等、問題点が多数考えられますが。)


そうなんです、意識の中に自分を入れこむ必要があるのです。これが出来るのか。

脳内情報世界では可能となります。

先ほどの野口の本に詳しく書かれていますが、

脳のような自立・自創システムで主体を創生させるには、“システム内で世界を作らなければいけない”、というのが“モザイクボール仮説”です。


私が感じている明るい世界・クオリアは、

情報その物であるに違いはありませんし、

その時自分が感じているのだ、というのも情報でなければいけないし、

そういう情報は与えられたものでなく、システムにより自創されたものであり、

自創のためには、それ自体で世界を持っていなければならないのです。


そしてその情報世界は、この物理世界とは次元の違う世界であるのです。


ですから、あなたの感じている意識は、この物理世界が創りあげたとしても、その世界はこの物理世界とはまったく違う世界なのです。

そう思うでしょう。


私は今、

この情報世界の創られ方・メカニズムを追究しているところですが、なかなか大変な仕事となってます。