尖閣諸島問題で、中国一部の人間が非常識な反日行動を行なっている。これらの報道を見る限り言葉は悪いが、韓国人・朝鮮人にまけぬ最低の国民であると思われる。


昨日は柳条溝事件の日で満州事変の発端日だとか。彼らは、この日を「国恥日」として忘れないでおこうと言う「記念日」としているようである。

そしてデモが始まる、これについては、私は首肯できる。


デモなどで、非常識な反日抗議を行なっている彼らと共産政府は、この国・中国の恥の上塗りをもくろんでいるのだろうか。世界に恥をさらし、中国はいつまでも「恥ずかしい国」だと言う事を忘れないように企てているのか。これなら私にも首肯できる。



さて気分を変え、今日は

「反情報論」赤木昭夫  岩波書店 2006年、を。

赤木は慶応大学の先生を引退され、現在は著作家です。


私は、以前からのブログにも書きましたように、意識の創生について、そのメカニズムの解明を求め、日々勉強、調査、思索を手当たり次第やっております。当然成果など目論んでいないのですが。


そのうち、最近は量子情報科学を含めた情報理論を勉強しており、上の本も情報と言う表題で、また岩波という名を見て、読み始めた次第です。


しかし読んでいくうちに、少し私の思っていた内容とは異なっているのに気付きましたが、それはそれで、最後まで読みましたので、以下のようにブログに感想を書きます。



まず、著者赤木は冒頭、社会に警鐘を鳴らすかのごとく「致命的な誤解」という章を設けています。

生きていく上で私たちは、情報にどれほどの重きをおいているだろうか。情報を追いかけ、情報に振り回され、あわただしく毎日を送っている。それが実感ではないか。

そうだとすれば、情報はよほど重要で、頼りにすべきもののはずである。だが、情報は本来的に確かさの点で怪しく、疑ってかかるべきものである。


この文章は本質的に誤っていないと、私は思う。しかしこれに続く次の文章はいただけない。

それにしては、日常的に誰もそう思っていない。そこに致命的な誤解がある。」と。


赤木は、冒頭の文章を「誰もそう思っていない」と否定する。そんな赤木に対し、致命的な欠陥があるのではないかと、疑わざるを得ないと感じた。


誰でもそう思ってますよ。情報なんて信用できないと。その証拠に馬券で当たったためしがないと。


そして、赤木は一応断定はしているものの、その断定が正しいかどうか、確かめるという表現で、情報とは何かという、定義探しを行なう。最後に赤木は見つけます。


赤木の情報に対する対応は比較的辛口である。

当然世の中には、不確かな情報と言うのが跋扈している。誰もが知っているが、赤木はその事にたいしても

そんないい加減なものである情報になぜとらわれるのか。いかがわしい情報をつかまされるように社会体制が仕組まれているためか。そういう場合もある。また当人の問い詰める努力が足りなくて、不確かという場合も少なくない。


いまさらどうのこうのという問題ではないのに、社会体制だの、個人の努力不足だの、お門違いの論が展開され、噴飯ものです。このように誤った認識が展開されます。


その他

少し考えるだけで明らかになるように、個々の事象や状態にたいして、個々の情報が対応する。多くの事象に当てはまる一般的な情報は存在しない」「だから原理的に言って、唯一絶対の情報が存在する訳がない。情報に絶対性(ユニークさ)を期待するほど愚かなことはない。

とか。これは当たり前のことで、だれも情報に絶対性など期待していない。


つぎに、情報を使い未来予測をする事に対し、

多くの場合、現在のデータをもとに、事象なり事態の未来を予測し、その際に事象なり事態に仮託する意味が情報と意識される。従って、情報の時制は「未来形」と錯覚される。そのため人々は情報を将来の行動を決める指針として有難がり、情報にとらわれる。」と。

これも明らかにミス判断で、「情報の時制が「未来形」と錯覚される」のは、著者の赤木だけで、誰もそのように思わない。


つぎに、情報の適中性について。

このように冷静に反省してみると・・・情報の適中性は低くて当然である。それにもかかわらず、情報があたかも確定的なもの、あたかも普遍的なもの、あたかも未来的なものに仕上げられる。」と。

これも認識不足と言うか、常識が欠けていると言うか、私には理解できません。誰も情報を確定的なものとは思っていませんから。



以上のような前提で、論が進んで行きますので、途中で興味が薄れて来ました。

でも最後まで我慢をして読みました。



最後のほうの章に、脳とコンピュータの違いが書かれてあって、

コンピュータには難題の、言葉の意味の了解を、ヒトは何となくやってのける。

それに等しい行為として、ヒトは情報を意味として受け取るのではないか。また意味をはらむ情報を生成するのではないか。それ以外にあり得ないが、なぜヒトにはそれが可能か。」と。


そこでウィトゲンシュタインに登場してもらい

<意味は言語の使用によって創生される>」「ウィトゲンシュタインは、言葉の意味は、使われ方によって創生され、言葉が使われる状況とゆるく結ばれていると結論した。」と。

またサールの言葉を使い、サールが言語コミュニケーションを定めた中に

「ジョンは部屋を出て行くだろう」と、「ジョン、部屋をでていけ!」とは、同じ命題として「ジョンは部屋を出て行く」を中身にしている

だが、前者は推量、後者は命令で」、「機能が推量と命令というように異なる

だから、言語コミュニケーションは命題と機能から成り立つとしなければならない。」と。

これらはまっとうな主張です。


赤木は、彼らの「そのひそみにならって、情報とは何か、情報とは何と何から成り立つかを、措定できないだろうか。」と期待を込めて言います。

情報の定義付けです。


そして、赤木の結論は情報は志向性であると結論付けます。ここでは突然志向性という語彙が出てきましたが、本文ではそれなりの説明があり、

サールの説明を援用しています。


本文はややこしいので、本文より、つまみ食い的に引用していくと、

志向性は、ヒトの脳の特性である

サールは次ぎのように考えた。

脳が外界と関わるとき、関わる事柄が存在し、それとの関わり方としての状態(いわば脳の外界に対する態度)が選ばれる。

これらのような脳のあり方、働きを概念化して、それをサールは「志向性」と呼ぶ。

たとえば「雨が降る」では

「雨が降る」が命題で、それを信じたり期待したりが脳の状態。

サールにおける志向性は、生命現象であり、自然現象である。


そして情報の定義・結論

志向性とは何であるかがわかってくると、すでに洗い出しておいた<意味としての情報>の性質からして、情報とは志向性に含まれるのではないか、志向性の一種ではないか、志向性の別名ではないか、と思いたくなる。

そのように考えて、敢えてここでは「情報は志向性である」と提言する。

情報は志向性だから、「情報」=「情報の中身」(命題)+「中身に対するヒトの態度」と定義できることになる


以上が情報の赤木の定義、実に人間的臭いのする定義です。

犬、猫、猿などには情報がないのでしょうか。赤木はたぶん「そうだ」というでしょう。


この定義をもとに、冒頭の致命的誤解に対し警鐘を鳴らすのです。

(私はこの定義には納得しませんが。)


従って、赤木の箴言は

最後の最後に、人間のあり方として肝に銘じておかなければならないのは、反情報(情報一般にたいし常に懐疑的であること)でないと、情報に甘んじてしまい、事実や知識の追求、そして人生を全うする生き方までが粗略になってしまいやすいことである

情報は知識のため、知識は知恵のため、日々の暮らしは人生のためのある

です。

赤木の言いたい事は、情報を信用するなと言う事です。



脳内ニューロンの活動から生まれているという、意識の創生メカニズムを勉強している私としては、すこし方向の違った情報論でした。