だいぶ涼しくなって来ました、水シャワーでは冷たく感じられます。夏が去ってしまいました、なんだか寂しい気がします。

そのせいじゃないんですが、最近は気持ちが途切れ途切れになり、ブログにまで時間を掛けられなくなっています。上手く言い表わせないのだが、書く気が薄れて、集中できない。

でも本は少しは読んでいます、途切れ途切れですが。


で、今日は

「知・情・意の神経心理学」山鳥重著 青灯社 2008年の本を。

著者の山鳥先生は、この出版時には神戸学院大学教授で、医学博士です。


さてこの本の目的は、表題の通り、

こころは情→知→意という流れで進化してきたのではないか、」という筆者の仮説を使い、「捕らえどころの無いこころなるものを言葉で捕らえようと試みたのが本書である。」のです。


その前に、心について、筆者が持っている感想を次ぎのように述べています。

心は脳が生み出す現象だが、その現象を捕らえる方法が無い。脳が働けば、電気が発生する。これを捕らえる事ができるが、捕らえたものはやはり電気である。・・・・・計測が細かくなり、観察の精度は上がってきたが、こころが見えてきたわけではない。物質が引き起こす物理化学的変化は計測することができるが、非物質であるこころは計測の仕様がない。」と。


また

さらに厄介なことに、脳が立ち上げる心と言う世界は、その脳を持っている当事者にしか経験できない。・・・・じゃあ、我々は自分の心のことなら、全部わかるかと言うと、そうはゆかない。」と。

この類の本で必ず聞こえてくる嘆き節ですが、この本でもご多分に漏れず聞こえてきます。


そこで、私が一番気にしている“意識とは何か”を中心にこの本を紐解いて行きますと、クオリアの項がありました。クオリアはこの部分にしか記述がありません。


そこでも、クオリアの不思議さが強調されていまして

我々の身体には眼、耳、鼻、舌、皮膚が備わっており、これらの受容器を介して、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの感覚を経験する。そしてこれらの感覚を素材にして世界を理解するための知覚像を作り出す。眼から受け取られたものは我々に「何かが見えている」とか、「見えていない」というある独特な主観的体験を生みださせる。」

この経験はいったい何なのだろう?


ということで、感覚系に特有な経験を「情報処理様式特異性経験」と呼んで、この経験を感覚器に起源をもつ感覚性感情と位置付けています。この経験は、いわゆるクオリアのことです。


先生の主張を少し長いですが引用しますと

クオリア経験とはいったい何なのだろうか。・・・・つまりは感覚性感情にほかならない。色合いの「感じ」や、明るさの「感じ」や、かたちが「見える」などという経験はすべて、神経情報が網膜から大脳視覚野に至る視覚処理系を経過してきたことの主観的表現である。同じように音色や、声音などという表現で表わされるそれぞれの個別的な音の特有な「感じ」は全く同じように内耳の蝸牛管から脳幹を経て大脳聴覚野に至る聴覚情報処理系を経過してきたことの主観的経験なのである。「見えている」と感じるのであり、「聞こえている」と感じるのである。・・・・・・そしてこの「情報処理様式特異性経験」がさらに分化すると、視覚性経験の場合「見える・見えない」から始まって、明るさ、色合い、方向、位置などという視覚性特有の多様な感覚へと精緻化されていく。

と言う事でした。


結論は以上のように

心は当事者にしか経験できない、非物質なもので、

クオリア経験は脳内情報処理の結果の主観的経験であると言っているに過ぎないのです。

常識的な感想のレベルを越えていません。


先生の主張及び本書には、“次ぎのステップに進む事が出来る、何らかのトリガーになるものがあるのか”という期待も見つけられませんでした。

“クオリアがどういう者なのか”という問いに対し、もう一歩踏み込んだ説明を、心理学者とかお医者さんに期待することは無理なのか。でも、本当に頑張って解明して欲しい問いなのです。


以上は、特にクオリアに焦点をあてての話です。

ですから、このクオリア以外の内容は、きっと素晴らしいものであろうと思いますよ。