長らくブログから遠ざかっていたので、ブログを書くのに多少困難を感じている。つまり”乗ってこない”のである。そこで書き易いものから自分の気持ちをのべていこうと思っている。
そこでゾンビ、分子素粒子からの全てにおいて同一な物理構成の私が、一人は意識を有しているのに、他方は有していない。意識を有していないのが、哲学的ゾンビと言う。外界の情報を私と同じ処理をして、同じ刺激に同じように反応します。ビールの味を同じ様に感じうまいといい、言葉を聞き取り話もし、痛みも痛いと顔をしかめます。ゾンビと私は機能的、物理的活動は同じです。しかしゾンビには意識体験が欠落しています。外から見れば全く見分けがつかないのですが、彼には”現象しているもの”がありません。私はゾンビではないのでゾンビではありません、意識クオリアもありますと言えますが、彼も全く同言するのです。いわゆる意識がないのに、意識が自分にはあると主張します。体験的・現象的意味では意識はないけれど、機能的・心理的意味では意識があるということです。
この体験的・現象的意味と、機能的・心理的意味の違いを私は理解できないのです。意識とは自分自身が直接体験できる唯一の基本現象であるのに、それを体験できず、痛くなんかないのに「痛い」というのです。何か私が私ではなく機能的体験をしている別の私がいるようでもあり、また機能的ロボットの存在で嘘をついているのではないのに、意識を感じる事ができると言わされているようなのです。
物理的な構造構成が同一であるのに、このような差が起こるのに論理的根拠がありません。例えば”痛い”と言う意味を私の体が感じるとき、コンピュータの場合はあるビットを立てて立てば痛い立たなければいたくないという簡単な場合であれば、ゾンビの存在は可能ですが、神経パターンの痛いという意味を理解する場合、他の神経パターンが痛いという神経パターンの情報の意味を理解する事により痛いと感じる事が出来るとする場合はそうではありません。意味が神経パターンの組み合わせで創立される場合、その意味が意味として自立します。機能的に意味が創立されれば、論理的に体験的意味になるということです。
このように理解すれば哲学的ゾンビは存在できないと思われます。