さっきの記事(震災)を書き終えて・・・
そして娘はまだ私の腕の中でお昼寝中
んーめずらしいっということで、もうちょっとブログ
久々にがんばっちゃおうかなっていうか
あれから15年―、
少し、振り返って記録を残しておこうかな?っと思います。
1995 1月17日
私は当時女子高に通う高校3年生17歳でした。
確かあの日は連休明け最初の平日ー。
私は前日から風邪をひき熱が出て、寝込んでいました
卒試もそろそろ近かったし、皆勤賞を誰より、何より狙っていた(°∀°)b
私としては絶対、学校を休むわけにはいかないというか
「休みたくない」気持ちが大きくて、、、でもその日、
体育の授業で持久走があり「走る?見学する?どっちヽ(;´ω`)ノ」
とか悩んでいて、そろそろ朝だなぁって思って
半、寝ぼけ状態の時に、
(ドーン!!)
ぐらぐらぐら・・・・・ぐらぐらぐらぐら・・・・
ごーーーーーごぉーーーーーーーー
っとすさまじい地鳴り?の音と
きんきんきんきん、かんかんかんかん、パラパラパラ・・・
(家の鉄筋、骨組みがこすれる音)
バサッ、ガサッ、パリン
(家具が落ちる、割れる)
えっ、ナニコレ(°д°;)?コレって夢なの現実なの?と思いながら
布団の端をしっかり握りしめてその場で動けずいると
しばらくして、揺れがおさまり
母が
「地震、地震やわ」 って玄関をバーンて開けて
その声で「あッ、今のは地震だったのか?!(=現実)」っと
それから、家族(父、弟、妹)の安否を確認。
とりあえず、みんな声はするし大丈夫そうだけど、
なんせ冬の朝は真っ暗で何も見えましぇん。電気・・つきません、
明るくなるのをしばらく、待つ・・・m(_ _ )m
そしたら、あっちこっちから、
ドアをバンバン、かんかん叩く音が聞こえてきて
みんな「出れない」「出してくれ~なんとかしてくれ」っと
どうやらドアが地震のせいで歪み開かなくなってしまった様子。
(うちは母の迅速な行動で、ドアが開いていたのでヨカッタ)
それから表が明るくなって外に出てみると
近所の人も数名出ていて「何、地震??」と話していたら
頭血だらけにになったおっちゃんが下りてきて・・・
訪ねてみたら、揺れで窓ガラスが割れて
頭に直撃してきたらしい。(この時、マンションの5F以上には
絶対に住まないでおこうと思いました。(´д`lll) )
その他にも地面がぱっくり真っ二つに割れているのを見て
「なんか、ただ事じゃないことが起こっている。いつもと違う」っていうのを
感じました。そして、それは現実のものとなりました。
同じ東灘区に住んでいる親戚の家(43号線付近)へと
安否を確認しに行った際、家はほとんど建っておらずガレキの山で
あっちこっちにガラスの破片がとび、煙がたち、
電信柱が折れ曲がり、電線がたれ下がり、
血だらけになった人がその辺に倒れていたり、ふらふら歩いていたり
「助けて~」「痛い、痛い~」「死ぬ~」
「いや~」「びえーん(←幼い子が泣き叫ぶ声)」
「う~~」「た~す~けぇぇぇ~・・・」
とどこからともなく聞こえてくるうめき声(x_x;)
サイレンの鳴り響く音・・・
戦争を味わった事ないけれど、きっと戦後はこんな感じ
だったのかな?って思うほど(((゜д゜;)))
それから親戚を探し、幼い従兄弟も無事で、とりあえず
私の家はまだ、なんとか形があったので「来る?」っと
いうことで一緒に連れて帰りました。
その日の晩は土鍋でご飯を炊き、みんなでおにぎりを食べ
着のみ着たまま眠りました(っていうか寝れなかったけど)
そして翌日、早朝から父とポリタンクを持って、車で山に行き
徒歩で、湧き水が出ているスポットまで水くみ―。
寒い寒い中、マスコミ?のヘリコブターがバタバタと飛び、その風で
「余計さぶいわッ( ̄∩ ̄#」っ飛ばされそう(x_x;)になりながら
待つこと2時間、3時間、ようやく水をくみ、
家にある残り少ない食べ物を家族で分け合い
余震に震えながら(((゜д゜;)))過ごす事3日間、
食べ物をどんどん底をついてきて、それよりも疲労が重なり、
(お風呂も入れないし、トイレも満足に流せないし・・・、余震で寝れない)
物資も来ないし、これから、どうなるかわからない
この家で暮らしていくのは困難であろうっということで、
親戚(大阪)の家にお世話になることに・・・
早朝に神戸の家を出発し、大阪の親戚宅まで
普通なら1時間半、2時間もあればですが、道なき道を行く
って感じで、半日以上はかかり、着く頃にはどっぷり
日が暮れてました((>д<))
その時、車でラジオから流れてきたフレーズが
今でも私の1番のお気に入り、それは
「どんなに暗くて辛くて、淋しい夜でも、
明けない夜は絶対ない。朝は必ずやってくる。」
っという言葉ー。これを聞いた時
どんなに辛くても、明るい朝はやってくるんだなぁって
高校生、17歳の私、何かを覚りましたよ
よし、がんばろうっと看護の道を歩み始めた時も
この言葉が、結構支えてくれました。
それから大阪で1週間、10日間ほど過ごさせてもらいました。
おばちゃん、お姉ちゃん、ご近所の方。。大阪の人はみな親切で
よくしてくれて、何も不満はなかったかれど、どこか
満たされてない気持ちがあって、電車を見るたび
「これに乗ったら、神戸に帰れるかな?」とか自転車を
見るたびに「あのチャリがあったら、神戸まで帰れるかな?
(=自転車を盗もうとたくらむ女子高生)」とか
そんなことばっかり思って、神戸に帰っても前と同じように
生活できるわけでもないのにっとわかっていても
「神戸に1日でも早く、帰りたい。」って思いが強くて・・・
だから「これからどうするの?看護学校は神戸だけじゃない。
大阪にもあるんだから、受けて、おばちゃん家から通ったら
いいから。」なんてことを、周囲の人に言われても
ピンとこなくて・・っというか
「こんな大変な状況で、受験なんてできるわけないやんか
私は早く神戸に帰りたいのに・・・大阪で受験したら、神戸に
戻れなくなるやん、そんなんイヤだ!!」っと聞き耳持たずで・・・( ̄_ ̄ i)
それから、祖父(父方)が亡くなり、ドタバタと田舎に帰り
あっという間に2月の中旬、高校から登校するようにと連絡があり
神戸に帰る事にまだ、水もガスも出てなかったけど
もしかして最悪、戻って来れないかも・・と思っていた町に
「帰れる」ことがすっごいうれしくて、うれしくて。
それと、やっぱり神戸を復興へと導く鍵を握るのは
、私達「地元人だ」とまたまた、何かを悟り(笑)
帰ってからさっそく学生ボランティアに登録
そこで、いろんな方と出会い
人の温かさ、優しさに感謝もしたし、楽しかった
でも町の辛い現実を受け止めなくてはいけない場面もあって
っで、あれよあれよと春、夏・・・・
あれから神戸の町は少しづつ復興していって
キレイになって、跡形がすっかりないというか。
昔の町がどんなであったか忘れそうで
あれから15年―。地震のおかげで大事な人を失い
住む家、職を失い、人生そのものを奪われた人・・・
私は家族もいて、住む家,職(父のね)もかろうじてあった・・
でも今も時々思うけれど
「あの地震がきていなかったら・・・私はどんな人生を送っていただろう。」っと・・・。
でも地震があったからこそ、その後、出会えた人もいて
今の生活もあり・・・。と考えると全然、悪くはないし
幸せは幸せだけど
でもちょっと「どうなってたのかなぁ?」って、
もう1つの人生?も見てみたかったな。