市民が見つける金沢再発見 -390ページ目

浅野川①おんな川って・・・・

金沢で育ったものなら、子供の頃、「ふたつの流れ遠長く・・・・」とか「か~げ静かなる浅野川」と歌って、誰もの心の中に流れているはずの浅野川も、私などは、振り返って見ると、春先の美しい桜のときや時々暴れて氾濫し大騒ぎするとき以外は、あまり知らないまま過ごしていました。ましてや何故「おんな川」といわれるのか分からず言っていました。

そこでちょっと調べてみると、同じ金沢市内を流れる犀川を「おとこ川」と喩えられるのに対して、浅野川を「おんな川」と言われるようになったという説や泉鏡花が大正8年に発表した「所縁の女」のなかで「俗に女川だという」と表現があるのがルーツだろうという話しもあります。犀川と比較すると確かに浅野川は女性を感じさせられるものがあり納得できます。

ちょっと脱線しますが、藩政時代の古文書に犀川が「おんな川」という記述があることを古文書の先生から聞いたことがあります。それによると「犀川は荒川にて、出水の時はなはだ水勢強候、女川は荒きものなり」とあり、「浅野川は男川ゆえ、水勢なく(穏やか)」とあります。


市民が見つける金沢再発見-女川


女性が荒いというのは今では一般的には考えにくいことですが、藩政時代はそうだったのかも知れないし、または筆者がそのような、荒い女性が周りにいる環境にあったかもしれない。だから実際のところはよく分からない。ですから一般的に犀川が「おんな川」と言われていたのかどうかは疑問があります。まあ同じことでも見方や考え方が変わるとまったく逆さまになってしまうという、そんな話ですが・・・

並木町(2)静明寺②

静明寺所縁の人々・灯篭竹(とうろうたけ)の丹蔵(佐々木日向守)
        
元文元年(1736)6月下旬、身の丈6尺余、色青く目鼻立ち鋭い風体いやしい男丹蔵は、主家多羅尾家の系図を盗み金沢を出奔した。丹蔵は武家に仕える仲間で、夜な夜な博打にふけり、その夜、つきに付き大金を手にしたのである。

元禄のインフレ景気が去り、8代徳川吉宗の時代、政策の反動でデフレが起こり、享保の改革からインフレ期一石銀七十匁~百匁がデフレで三十匁~五十匁にな り、武士も百姓も生活は苦しくなり、世態は醜悪、風紀は紊乱し、一攫千金を夢見る投機心が勃興し富籤や頼母子講がはやり挙句の果てには、詐欺窃盗騒ぎが頻 繁に起こった時代だったと言う。

主家の多羅尾八平次(300石取り)も賭博に嵌り、収納米の二重売却や近隣に住む鶴見和太夫の刀、脇差4本を盗み打ちつぶし売り飛ばすなど詐欺窃盗の常習 で、おまけに兄弟骨肉の相食む乱脈であったと言う。元文2年(1737)6月15日八平次は能登島へ流罪、弟(定番御馬廻組清太夫)は五箇山へ流罪にな る。奉公人灯篭竹の丹蔵は、このような主人のもとでは実直に働くことが出来なかったようで博打三昧に走ったのも頷ける。主家の没落で扶持にも離れ、江戸に 活路を求めての出奔であったものと思われる。

江戸では、常陸笠間城主六万石の井上河内守(後、浜松城主井上大和守)の仲間奉公の職を得る。博徒とは言え、才気煥発で理財の才があり、河内守の勝手を建 て直し、知行500石の家老職に出世した。老年に至り、傍輩の子を養子として跡式を譲り、隠居となり、京に上り佐々木北翁と改め九条家(左大臣尚実の時) に仕え、雑掌を勤める。
ここでも財政整理に成功して、自身も一万四千両の分限者となる。経済的非常時に知恵と才覚で成り上がる。金力には公家も大名も膝を屈せざるを得なかったのである。

明和元年(1764)10月佐々木日向守 (左京高安)は九条家雑掌の格式で故郷金沢を訪れるのである。
当時、金沢の法船寺町に実子田中源五左衛門(長家家来田中伴左衛門の養子御馬廻組200石)あり。大坪流の馬術の名手で、灯篭竹の丹蔵が金沢時代博徒仲間、玄洞坊という山伏の妹との仲に生まれた長子である。

佐々木日向守(左京高安)が金沢に来た理由は、京の仁和寺、青蓮院の宮様の資銀を調達し、貸し付けると言う触れ出しで、当時は、どこも台所は火の車、長家 も前田駿河守家も村井家も、あからさまに言い出さないまでも、いずれも借銀に関する談合を円滑にしたいと思っていた事はうなずける。佐々木日向守(左京高 安)は、金沢逗留6日間。
加賀藩では、10代重教の時代、藩では国賓として歓待した。また謝罪のため多羅尾家を訪れ、多羅尾家では憎しみを忘れ晴れ姿を祝福して迎えたという。

当時、養子縁組を利して苗字を改め諸太夫(従五位下)にまで昇進したものはいたが、この姓「佐々木」で諸太夫になった彼の手腕は稀有という。ちなみに当時、加賀藩での諸太夫(従五位下)を叙爵出来たのは、八家だけだった。



市民が見つける金沢再発見-佐々木日向守


静明寺の墓は、源五左衛門により建立され、高さ六尺。法名は「義好院殿忠山北翁日勇大居士」左側面に俗名佐々木日向守、右側面に明和丁亥歳十一月二十二日、田中氏と刻してある。

参考文献 副田松園著(世相史話)石川県図書館協会発行より
(多羅尾家、旧味噌蔵丁、現在の消防署裏、珠姫に付いて来た甲賀忍者の末裔。菩提寺は蓮昌寺。)

並木町(1)火矢所跡②

「小川家并火矢方由来申上家芸取立方願書」などによると、小川家の先祖胃齢は、新羅国騏山の補祐という者から火砲の製造技術(薄金張筒火矢など)を伝授され、子胃円に相伝したものの、胃円には子がなく弟貞種(朝鮮名は伝承されていない。)にその技術を残らず伝授したという。後に、貞種(小川久次)は、秀吉公により大阪へ召し連れられ山海久次と名乗っていたが、京都において加賀藩2代藩主前田利長に召抱えられ名を小川忠勝と改め加賀藩に仕えた。


市民が見つける金沢再発見-火矢1    市民が見つける金沢再発見-火矢2

(小川家古文書より)

加賀藩では、火矢所の裁領役を「火矢方御用」というが、その火矢方御用に、小川忠勝の長男である小川七郎左衛門が任命され、承応3年(1654)に知行百五十石拝領。次男茂兵衛は兄とともに切り米30俵で徒歩並として召し出されている。万治2年(1659)に現在地に火矢所続きに屋敷を構えた。以後小川七郎左衛門の子の代に分家するが、両家は共に並木町(現材木町)に屋敷を拝領し、鉄砲・火器の技術を相伝し、火矢方細工人を組織し李朝から伝わる鉄砲・火器および火薬製造技術を幕末まで伝えた。

延宝期には、小川家は小川七郎左衛門の子、長男権右衛門、次男七丞及び茂兵衛の子、茂右衛門の3家があったと思われる。

火矢所で働く火矢方細工人(御歩並)は、時代によって変動はあるが、木方4人、鉄方5人、真鍮金物方1人の10人となっていたようで、朝鮮からの家系伝承を持っている者が多かったといわれている。