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並木町(1)火矢所跡①

並木町(1)

火矢所跡(ひやしょあと)①
慶長年間から、加賀藩では火砲を製造する火矢所があった。朝鮮人胃齢の子孫が2代利長に召抱えられ、代々小川氏と称し嘉永6年西洋火術方が起こるまで続いた。李朝では火砲の技術が発達していて朝鮮出兵に際し、大砲を持たない秀吉軍も悩まされたと言う記録がある。




(小川家並火矢方由来申上家芸取立方願書の一部・妙泰寺蔵)


種子島の鉄砲伝来は、硝石が火薬の原料として大量に必要になる。一説には、硝石が取れない日本にヨーロッパ人は硝石の輸出により莫大な利益を得るために鉄砲を日本に伝えたともいわれているが、江戸時代の初期からは硝石を自給しようと努力した。
慶長年間(十七世紀)のはじめ、加賀藩では、硝石の製造を五箇山で始め、「火矢所」及び「焔硝(塩硝)製造所」が設置された。火矢所では、火器の製造をおこない、焔硝(塩硝)製造所において火薬の製造をおこなっていた。

並木町

並木町(一部材木町)

浅野川左岸に位置。西は橋場町に、東は材木町に続き、南東は浅野川川除町。町の中ほどに一文橋が架かり、浅野川北方対岸の観音下町などと結ばれる。両側町で地子町。三代前田利常の代に、川除けのため浅野川縁辺りに松が植えられた。

町名は松並木(県指定天然記念物)にちなむと伝えられる(金沢古蹟志)。ところで町内の当山派修験天道寺は慶安4年(1651)に大鋸屋町(現金城楼辺りか)より当地に移転、このときに移転先の町名を「浅野川々除新地町」としている(御領国神社来歴)。

元禄9年(1696)の書上(「片岡孫作筆録」加越能文庫)にも新地町の名が見える。しかし文化8年(1811)の金沢町絵図名帳では浅野川川除町に含まれている。同帳によると浅野川川除町は組合頭次郎吉裁許と井筒屋逸吉裁許の二組に分かれており逸吉(主計町住、記録方役、御買手方加役、太鼓役者)裁許分が当町域にあたる。逸吉組は家数84、うち武士、足軽、小者をあわせ37軒で、魚鳥吟味役・魚肝煎・御献上五郎丸布等取次役なども住していた。

文政6年(1823)浅野川川除町から分かれて一町として町立てし(「又新斎日録」加賀藩史料)、同年には肝煎昌次郎の裁許(町奉行より出候町名)天保2年(1831)と同4年、七海(現能都町)出身の阿武松緑之助が浅野川橋上の河原において相撲興行を行った。(「毎日帳書抜」加越能文庫)。


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(天保年間の金府図より)

天道寺は加越能三州の山伏寺180ヶ寺を統括する山伏頭五ヶ寺の一つで、触下に加賀越中の当山派二十二ヶ寺をもつ(貞享2年寺社由緒書上)



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(現在の浅野川稲荷神社(天道寺))

また、日蓮宗静明寺(現法華宗陣門流)は、慶長17年(1612)八坂に建立され、八坂で崖崩れに遭い享保6年(1721)当地に移転した。ほかに延宝町絵図に載る日蓮宗蓮心寺が有ったが、同寺は延宝5年(1677)破却された(自他群書)。


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(静明寺)

一文橋は通行料が橋名になったもので、勧進によって架設費用を調達したことから勧進橋ともよばれた。元禄12年には茶臼山崩れによる浅野川出水で「かんじん橋十間程大平に成」とある(改作所旧記)。享保町絵図には、「カリバシ」。享保12年(1734)の武士町細見図には一文橋とみえる。

慶応2年(1866)静明寺対岸の料亭一草亭が焼失した際、消火のため町夫などの通行が増し、同橋中ほど二ヶ所が落ちて多くの怪我人が出た(梅田日記)。翌年新たに架設され天神橋と改めた(卯辰山開拓録)。

明治4年(1871)には静明寺門前を合せ戸数89(「御布告留帳」加賀藩史料)。同年、町の南北、かっての磨組の組地が並木下町として町立てされた。
同6年には金沢で最初の夜学校である私立並木町小学校が静明寺内に創設された(金沢市教育史稿)。
なお天道寺は明治元年に復飾。同14年浅野川神社となった。


●文政6年(1823)五月。金澤の一部町名を改む。
「是迄浅の川々除町と唱候内は火矢所前橋より下は橋場町地境迄     並木町」

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(加賀藩史料より)

平成17年(2005)10月1日。天神橋から橋場町詰めまでが金沢では7例目となる旧町名が復活した。
現在は、材木町、橋場町、並木町。

(参考文献:日本地名辞典「平凡社」加能郷土辞彙「北国新聞社」)

浅野川界隈の日々

平成20年(2008)7月28日(月曜日)朝8時54分、金沢市山間部のゲリラ豪雨により、金沢市の中心部を流れる浅野川が大増水しました。このため、金沢市中心部の観光地である東山(浅野川右岸)では、堤防切れ間から流れ出た大量の泥水により浸水し、また並木町、橋場町(同左岸)では、これに水門を逆流した河水も加わり、多数の住宅、商店、自動車等が浸水しました。




今回の大増水は、堤防の高さは超えていないため堤防が閉鎖されていれば被害拡大は防げたということで、被災住民らは、県と市に対し説明と謝罪、補償を求めている。そういった中で昨年秋より浚渫工事が始まった。


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天神橋上            平成21年10月23日



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浅野川大橋下          平成21年10月30日



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主計町辺り           平成21年11月14日




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中の橋下黒淵辺り        平成21年11月25日


浅野川では、昭和27年(1952)と昭和28年(1953)に集中豪雨による大洪水が発生し、多くの橋を流失し防災対策が議論された。ダムの建設も求められたが上流の区間も短く、また、流域に適した地形が無いため1974年に犀川への分水路が建設され、増水時には犀川へ水を流す工夫がされた。しかし、平成 20年(2008)には集中豪雨で55年振りに氾濫が起き、湯涌温泉とその下流、ひがし茶屋街、主計町の辺りが大きな被害を受けた。



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浅野川大橋下            平成21年11月25日




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浅野川梅の橋上           平成21年11月30日




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浅野川静明寺裏辺り          平成21年11月30日




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中の橋上              平成22年1月




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主計町側を先に完成か         平成22年2月24日





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中の橋下右岸側工事中       平成22年2月25日





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小橋用水取り入れ口       平成22年3月16日


何時もはすぐ下に堰があり、この辺りは深みで、主とも思われる大きな鯉が生息していてよく跳ねていたが、何処へいったのでろうか。



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河川工事のお知らせ     平成22年3月24日

工事は、当初より2ヶ月以上遅れるのかな?ゴールデン・ウイークには、間に合わないようだ。