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金澤の御能⑩13代斉泰公・14代慶寧公

【金沢・江戸】

前回まで

文政2年(1819)、年頭儀式を取りやめになるが、4月になり19日に斉広公斉泰公親子で能を舞い、文政4年(1821)11月には、斉広公は隠居、家督を斉泰公が継ぎ、文政6年(1823)斉広公の隠居所竹沢御殿の新築が成就し、12月中旬にここに移り、文政7年(1824)3月18日に移転の祝賀能で自ら舞い、以後毎月、竹沢御殿で能を催し、6月に斉泰公の入国祝賀の儀があり、翌7月10日、斉広公は歿します。

 

文政5年(1822)。13代斉泰公就任当初は、12歳と年も若く、藩政を投げ出したはずの父斉広公が依然して実権を握っています。時節柄、緊縮方針の中、翌文政6年(1823)父の隠居所竹沢御殿の新築などで出費が嵩み、父斉広公の死亡後も、父に劣らぬ能好きの斉泰公催能は、弟他亀次郎(斉広公次男)や諸橋権之進、波吉宮門などの金沢の御手役者で行ない、また、文政8年(1825)の松囃子(謡初め)では、京から竹田権兵衛・平四郎が参上して勤めたが、その後は、近臣や地元の御手役者がお相手しています。

 

 

斉泰公は、文政5年(1822)11月、12歳で加賀藩主となり左近衛中将に昇任し、加賀守を称しますが、依然藩政は父が握っていました。文政7年(1824)斉広公の死により親政を開始し、藩政改革に取り組んで行きます。文政10年(1827)11月、将軍家斉の娘溶姫が前田家へ輿入れし、藩政改革は最初奥村栄実を中心とする保守的な改革を進めますが、やがてペリー来航などで開国論などが囁かれ始める前後になると、革新派(黒羽織党)を登用して洋式軍制の導入に取り組むなど、藩政改革を頻繁に行ないます。元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)では世嗣慶寧に兵を預けて京の御所を守らせていたが、禁門の変の当日朝、退京してきたので、怒った斉泰公は慶寧を謹慎させ、家老の松平康正(大弐)と藩士の大野木仲三郎に切腹を命じています。そしてこれを契機として、慶寧と親密な関係にあった尊皇攘夷派の武士たちを、城代家老の本多政均と協力して徹底的に弾圧し、慶応2年(1866)、斉泰公慶寧公に家督を譲って隠居しますが、藩の実権斉泰公が相変わらず握っています。

 

 

拙ブログ

大弐が死んで、何と庄兵衛!

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文政10年(1827)の松囃子(謡初め)は、作法通りであったが、年寄への御吸物を出さず、嶋台(祝儀の時に飾台)を止めて三方(供物台)にするなど簡略化しています。それは、昨年の7月に異国打ち払い令や12月の江戸本郷邸北住居火災など、藩の財政も窮乏し節約を議することがしばしばで、さらに、その年文政10年11月に将軍の娘溶姫の輿入れも重なり、藩の出費も莫大になり、10月には藩士への風紀取締りのお触れの要旨は、「最近の若い者は、能の稽古に凝って、武士としての文武の励みが薄くなった!!」というものですが、実態は、不況庶民は困窮し、藩財政はいよいよ苦しくなって藩士にも節約を強いるもので、やがて天保の飢饉に至たり、家中半知借上げに繋がって行きます。

 

 

財政逼迫下の御能

天保元年(1830)5月4日、江戸本郷の上屋敷で加賀藩最後の藩主慶寧公(犬千代丸)が江戸本郷上屋敷でお生まれになります。これを祝し金沢城下では6月1日・2日賑やかの盆正月が行われ、前代未聞の繁盛だったと伝えられています。9月25日には城中で御祝能があり、藩士達に拝見を仰せつけられます。この年、藩は幕府に対し御文庫金5万両の拝領を願い出でたが、1万両(約10億円)だけ借用が許されています。

 

(斉泰公)

 

天保2年(1831)正月2日の謡初め(1昨年松囃子を改め)が行われ、3月2日には慰能、4月には江戸で斉広公の未亡人真龍院を招きお囃子、8月15日、安宅延年之舞伝授の件で、御用差し止めの宝生太夫が再び出入りを許されています。

安宅延年之舞伝授の件:安永4年(1775)2月から3月にかけて、10代重教公と宝生太夫九郎の間に、宝生流一子相伝「安宅」の伝授で波乱が生じます。大名気質伝統に固辞する能役者気質の摩擦で、さらに扶持するもの扶持されるものの中で、微妙な思いが絡み、しかも、当時の宝生太夫九郎は他所から入った養子で、歩み寄れず結果的に宝生太夫前田家から半世紀に渡り御用差し止められていました。)

 

天保10年(1840)7月、10歳になった世嗣慶寧の教育について、”乱舞の稽古は、今しばらく見合わせて如何かと?“と重臣より意見が上申されています。その要旨は「御学問に重点をおいてここに集中しているときは、まれに乱舞をされて、お慰みになれば、精神の発散、身体の運動養生のなり、父斉泰公のお慰みともなって、孝養の一つになるが、今の年ごろで御学問に志も立たぬ内に、舞能をはじめると、器用な方だから面白くて、すらすら進み、その方に重点をおいて、大切なことには、思慮が届かなくなるのは、貴賤高下を問わず、人間の常情ございます。もし将来、おいおい乱舞稽古をお始めになるとしても、今しばらくお見合わせになるようお願いします」というもので、若い藩主への期待仕える者の思いが窺えます。

(御能は奥深く、器用な者には、遣れば遣るほど嵌ってしまう魔力を秘めていることへの忠告か?御能に耽溺する当代や先代を見てきた重臣達の総意であったのでしょう・・・。)

 

(慶寧公)

 

嘉永(1848〜1854)なっても斉泰公御能に一生懸命で、嘉永2年(1849)閏4月、18歳になった世嗣慶寧にも能を学ぶようにすすめています。「・・・・保養運動のため、はたまた来年の将軍家の菩提寺への参詣のお供もあり、それまでに装束能をしておけば、その時の一助になると云うことで、装束御用の節は、自分のものをさしあげよう」といっています。翌3年(1850)3月17日、慶寧は、宝生太夫友于(ともゆき)を招き入門し、「田村」のクセのある仕舞を習い、25日には、初めて能を演じています。

 

 

14代前田慶寧公:天保元年(1830)5月4日は江戸に生まれ、母は第11代将軍徳川家斉の娘溶姫。幼名は犬千代。天保12年(1841)12月、又左衛門と称し、松平の名字を与えられます。天保13年(1842)2月15日に登城、将軍家慶に謁し同月22日江戸城にて元服、正四位下左近守権少将に任じられて筑前守を称し、家慶の偏諱を授かって慶寧に改名。元治元年(1864)5月、斉泰公に代わり上洛し、御所の警備にあたっていたが、病がちになり、7月に起こった禁門の変では、長州藩と幕府の斡旋を試みたが失敗し、病を理由に退京し近江国海津(加賀藩領)に居たため、長州に内通した疑いを受け、斉泰公により幕命に背き御所の警備を放棄したとして金沢で謹慎を命じられ、慶応元年(1865)4月、謹慎を解かれ、慶応2年(1866)4月4日、35歳で斉泰公から家督相続し、明治2年(1869)明治新政府の金沢藩知事、4年(1870)廃藩置県で東京へ、その後、結核と思われる肺疾患にかかり、明治7年(1874年)5月22日療養先の熱海で父に先立って43歳で歿します。

 

拙ブログ

加賀尊王攘夷派千秋順之助➀

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徳田寿秋先生の「慶寧公と女たち」

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13代斉泰公の御能伝説

前田斉泰公脚気を患い、仕舞を日課として脚力を回復した体験から、能の鍛錬が身体を健全にするとの確信を得ていました。弘化 2 年(1845)「申楽免廃論」の執筆を思い立ち、その中で書名に使用された「申楽」のほかに「謳舞・舞曲・乱舞・能曲」等の語が見られます。

 

 

謡曲「盆正月」は、加賀藩で藩主の慶事に際して町民や在郷の者に仕事を休ませ、作り物や獅子・祇園囃子などを繰り出す形で祝意を表させます。弘化 2 年(1845)2 月の盆正月は、斉泰公の記述によれば脚気が治癒した祝いに3 日間の休日とし、一統に赤飯が振る舞われた時の様子を、各町の謡曲ゆかり作り物を見て回るカタチの謡曲に仕立てています。

 

前田斉泰公著「能楽記」斉泰公は様々な古称を挙げて「今定めて能楽と曰いう」と宣言しています。斉泰公の揮毫した額の文字は、明治 35 年(1902)に創刊される雑誌「能楽」の表紙にも使用されます。(前出)

 

 

金谷御殿の跡に造営された尾山神社の舞台は明治 11 年(1878)8 月に落成し、9 月に舞台開きの能楽が行われました。この舞台を「能楽堂」と呼んでいました。泉鏡花「卵塔場の天女」(昭和2年)では、尾山神社の能舞台と思われる場所を「能楽堂」と呼んでいます。

 

「能楽」の提唱した前田斉泰公(候)

明治13年(1880)、岩倉具視邸の会で新しい「御能」の呼称が検討され、幕府の「御能」、京都の「乱舞」、室町の「猿楽」、古称の「散楽」等に代えて、新しく「能楽」を使用することが決まります。検討を依頼した前田斉泰候は満足して、翌年舞台開きの行われた芝能楽堂へ自筆の「能楽」額「能楽記」と云う文章を掲げ、能楽復興の中心にいた人々の宣言を経て次第に諸方面で定着して行きます。

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等

 

 

金澤の御能⑨12代斉広公

【金沢・江戸】

12代斉広公は、享和2年(1802)3月、19歳で家督を相続しますが、就任当初は「当時、世間一統が難渋している時節ゆえ、年寄が、各自の宅で能囃子など慰み事をしていては、一統の気うけもよろしくないであろうと、かねて心得申しつかわしおいた。以下の家老たちも、その様に心得たらよかろう」と当初は婉曲に能囃子の禁止令と申し渡しています。

 

 

しかし、翌年5月には、”今後、家来等を相手に能囃子をするのは苦しくない。その中に役者を交えてのはよろしくないが、役者のみなら構わない”やや緩やかになってきます。さらに4年後の文化3年(1806)8月には、斉広公自身が「能」に嵌りだしたのか“能囃子につては前に云った通りだが、それでは慰みにはならない、これからは、役者を交えて、自分自身の能囃子をするには、勝手次第!!”とコロッと変わっていきます。

 

(寛政7年(1795)6月、治脩公の後継の斉敬(重教公の長男)が18歳で江戸にて夭逝したため、13歳の亀万千代(重教公の二男・斉広公斉敬の養子として跡を継ぐことになります。翌8年(1796)4月に諸橋権之進波吉宮門亀万千代(斉広公)仕舞稽古の御用を仰せつかり、翌9年(1797)宝生太夫(14世)が斉広公師範御用とあり、先代太夫の通り三十人扶持を給せられています。寛政11年(1799)4月、治脩公は江戸邸で正姫と婚儀をあげ5月4日、婚儀後初めて、一門の人々を招いて饗応があり、お敷舞台で、能を催し、御歩並以上当番並びに無息の人にも見物させています。そして2年後、享和2年(1802)3月、治脩公は隠居し斉広公は家督を相続しました。)

 

(当時の金谷御殿の能舞台)

 

文化4年(1807)1月2日の御松囃子(謡初め)。竹田権兵衛は出府せず、諸橋権之進も痛みが有り勤められず、波吉宮門が代わりに勤め、翌年文化5年(1808)1月15日に、金沢城二の丸炎上御殿能舞台も燃えしてしまい、その年の春、斉広公は江戸で「石橋」の能の伝授をうけ、帰国した10月28日、金谷御殿「石橋」を演じ、年寄中に拝見させ、翌月も翌々月も、また、翌年の2月にも、現実を顧みないかの様に金谷御殿を演じています。

 

(文化6年(1809)2月3日には、京の竹田権兵衛が、先代権兵衛の稽古舞台が金沢荒町に有ったものを止め、弟子の今町中川忠蔵の宅地に、舞台を新築したもので、3日と5日とに、舞台開きの能を興行する予定権兵衛所労(疲労?病気?)のため中止になっています。実は争論?があり取りやめたという噂?が有ったと云われています。)

 

(斉広公)

 

文化6年(1809)4月9日に、二の丸御殿が完成し、斉広公は26日に、金谷御殿から二の丸御殿に移り、金沢の町民は盆正月を祝い、5月6・7日に祝賀の能を催し何れも翁付の五番立で、斉広公は6日に「枕慈童」を、7日には「石橋」を自ら舞っています。先代の治脩公とは違い斉広公は自ら舞うことが楽しみで、実父重教公の血を引いたのか、後に竹沢御殿能に没頭し耽溺した一端が窺えます。

(一般的には、能が式楽となった江戸時代には、翁付五番立の上演形式が正式であったと云われています。諸説あり)

 

(隠居の治脩公は、5月14日・15日には、子方の能役者や素人の町人の子供を金谷御殿に召し集め、シテ・ワキ・囃子方は子供にやらせ地謡は大人も交えてを演じさせています。治脩公は翌年文化7年(1810)1月4日、66歳で歿します。)

 

拙ブロブ

金沢城二の丸御殿⑦文化の再建を藩主が共に祝う!その(四)

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(二の丸御殿能舞台の天井(異論あり)・現中村神社の拝殿の天井)

 

空前の盛儀と云われる二の丸御殿再建を祝した約1ヶ月後、閏2月4日大がかりの慰能を催すことを家中・御歩並以上に拝見を仰せつけると告示しています。閏2月10日・13日・16日・19日・22日の5日間で、その割り当ては、ほぼ規式能の時と同じで、白洲には、地子町・七ヶ所からの町人たち、町方大工、作事方大工、御台所御用聞、奥納戸御用聞、寺社方門前地の者、宮腰並びに御郡方。造営方係り足軽、御台所付同心等、5,689人を5日間に割り当て、1日、ほぼ1,137・8人ずつ拝見させて、赤飯と酒肴を下され、雨天の際は3人に1本の傘を貸与えています。この慰能は、5日間を通斉広公が主役で、斉広公自身の“演能を住民に拝見させるのが目的”だったと云われています。

 

 

文化12年(1815)2月22日、勝千代君(斉泰公)着袴式の祝能で、斉広公は自ら「五筒」を舞い、6月18日には、斉広公の女寛姫の七夜の祝能を行い、14年(1817)正月の御松囃子には、斉広公は勝千代の手をひいて出て、8月1日には、勝千代君は、7歳の初めて奥舞台で「猩々」を舞っています。これが後に明治天皇の御前で、能を演じた斉泰公初舞台になります。

 

(文化再建後二の丸御殿の能舞台)

 

(文化14年(1817)12月13日、斉広公はこの日、治脩公の未亡人を招きを催すはずでしたが、風邪気味のため中止になり、翌文政元年(1818)の暮から健康がすぐれず、文政2年(1819)年頭儀式を取りやめになるが、4月になり19日に斉広公と斉泰公の親子を舞い、文政4年(1821)11月には、斉広公は隠居、翌年、家督斉泰公に譲り、文政6年(1823)斉広公の隠居所竹沢御殿の新築が成就し、12月中旬にここに移り、文政7年(1824)3月18日に移転の祝賀能で自ら舞い、以後毎月、竹沢御殿で能を催し、6月に斉泰公の入国祝賀の儀があり、翌7月10日、斉広公は歿します。)

 

拙ブロブ

12代藩主前田斉広公と竹沢御殿➀

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金沢城二の丸御殿より大きい竹沢御殿➁

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“能”に明け暮れた斉広公、竹沢御殿③

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取り壊された御殿から兼六園へ、竹沢御殿④

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12代藩主斉広公の残したもの

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(竹沢御殿の図(現兼六園) 玉川図書館清水文庫より加筆小西裕太氏)

 

斉広公は、高い政治意欲が結果に結びつかず、能に没頭することで不安やささくれ立った気持ちが鎮まることから、現実からの逃避であったようにも思われます。

 

P,S

文政3年(1820)5月には、藩は川上(現菊川)に芝居を、4月には町奉行の申請によって卯辰・石坂の茶屋女が許可されます。以下、「面白ので始まる謡曲「放下僧」小歌をもじり(替え歌)・・・」金沢の当時の世相を謡っています。

 

面白の金沢の都や江戸に聴くとも及ばし

東には、祇園茶屋町落ち来る

客の音羽の追い出すに宵の御客はちりぢり

西は宝久寺。下に昌安町廻らば廻れ。

水車の輪の仁蔵辺りの川浪。

河原乞食は水にもまるる。

袋畠は船でもまるる。

身請の客は廓にもまるる。

太鼓持はうんてらかひにもまるる。

実にまこと。

忘れたりとよ、ちんちきちゃんにもまるる。

踊り子の二つの袖の、

臍(へそ)をかかへてうちをさまりたる

御代かな。

 

とあり、金沢爛熟から頽廃につづく様子が窺えます。因みに、当時藩士で学者の富田景周が藩に書いた意見書には「蓮地(竹沢御殿)のご普請もこれきりでお止めになり、江戸・京の能役者もお帰しになりたい思し召しですが・・・・」云々をあります。

 

つづく

 

参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等

 

 

金澤の御能⑧10代重教公・11代治脩公

【金沢・江戸】

前田家は7代目から9代目の3代にわたり藩主の早世し、同じ父𠮷徳公で異母弟の6男重教公(しげみち)は宝暦4年(1754)3月11日、将軍徳川家重に御目見し、9代重靖公の末期養子として13歳で家督を相続します。藩主就任前後、加賀藩では加賀騒動の余波が続き宝暦4年(1754まで保守派による大槻伝蔵一派の粛清が続き、また、相次ぐ藩主の交代により藩政は停滞し、藩の財政は一層苦しくなっています。

末期養子:武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のこと、当初は、幕府が大名の力を削ぎ統制を強めるため末期養子は禁じられていましたが、幕府の支配体制が一応の完成を見たことから、慶安4年(1651)に幕府は禁を解きます。

 

 

しかし、宝暦4年(1754)3月、金沢の町は、町人による盆正月を行い町々で囃子を催して祝い、江戸では家督相続披露と祝賀の能が行われています。5月25日に老中を招き、6月26日は一門衆、大名、旗本衆を招待。8月22日に、一門の婦人達を招き、9月29日には、婚約中の勝姫(千間姫・重教の妻・院号寿光院)と紀州候嫡子宗将が、父の宗直と共に訪れ、能を行っています。

盆正月:藩政期に前田家の嫡子誕生や家督相続・官位昇進などの慶事を城下で盛り上げ祝った行事。囃子: ひきたてるという意味の(はやす)から出た語で、能・狂言・歌舞伎・寄席などで、それぞれ特徴のある(はやし〉があります。仕舞:能の略式演奏で、囃子を伴わず、面も装束もつけず、シテ一人が紋服で、謡だけを伴奏に能の特定の一部分を舞うもの。

 

 

宝暦5年1755)1月12日、14歳の重教公は太鼓方の御手役者藤本太左衛門を呼んで、太鼓の稽古を始め、18日には宝生弥三郎から仕舞をならいだし、1月19日には元服式をあげ、2月1日、父吉徳公生母(預玄院)、兄宗辰公の生母(盛徳院)が、年賀に見えると、御敷舞台で囃子をはじめ、重教公弓八幡の太鼓を打ち「羽衣」「芦刈」仕舞を演じています。

 

(宝暦5年(1755)は、大凶作で翌6年3月から、米の価がひどく騰貴し、4月12日、金沢でも窮民たちが暴動を起こし打ち壊しを行っています。)

 

 

宝暦7年(1757)3月、加賀藩恒例の入国祝賀能が行う予定が、前年の打ち壊しなどの影響から引き延ばしの旨告げられ、恒例の将軍拝領の鶴の披露も中止が発表されます。入国能は6日を5日に短縮してもと考えますが結局中止になります。しかし、重教公は自ら演能する熱意から、翌宝暦8年(1758)2月、生母実成院姉操姫を二の丸に招き「弓八幡」「羽衣」「鵜飼」を舞い、翌9年(1759)1月、近く姫路候に輿入れの操姫への餞別としてを演じ、入輿のあとも、六十三輩の客を招き、囃子を行なっています。

 

(13歳の藩主重教公襲封間もなく、不足する金銀を補うため不換紙幣の”藩札”を発行します。市民は紙のお金を信用できず、物価が上がり経済が混乱し、米価が60倍に膨れ上がり、米穀商の打ち壊しが起こるなど大失敗します。それに追い打ちを掛け宝暦9年(1759)4月10日、金沢では、俗に「宝暦の大火」と云われる大火事が起こり、金沢城をはじめ10,500戸余りが焼失し、幕府から金5万両(現在の約5億円)を借りて急場をしのぎます。)

 

 

拙ブログ

六斗の広見と宝暦の大火

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翌宝暦10年(1760)正月元旦の年頭の礼は、燃え残った金谷御殿で行い、2日の謡い始めは、手狭なので、御流れ頂戴のお吸物も、お囃子も省略、宝暦11年(1761)も同様でしたが、その年の3月27日に、年寄・家老・若年寄などに能を拝見させ、料理を出しています。翌12年(1762)重教公の能はよほど上達したのか、政務も顧みず夢中で能にふけるようになり、3月には宝生太夫から「道成寺」の伝授を受け、財政難に追い打ちを掛けるような大火での出費にも関わらず、能役者へは大枚な金子を与えています。

 

能役者全盛!!“上が好むところ下はこれにならう“

この頃の狂歌「世の中は 四つ猿楽に昼坊主 八つ町人に夕暮れの武士」と、当時の世の中で、もてはやされるものの順位を並べた狂歌で、藩の御手役者、宝生家の分家の弥三郎が、宝暦14年(1774)五人扶持加増の十五人扶持(玄米30俵)となり、宗家の宝生九郎は、10年前の二十人扶持が三十人扶持(玄米60俵)に給され、財政難にも関わらず10代重教公耽溺している様子と町人や武士の憤まんが垣間見え、当時の庶民にも響き流行ったのでしょう。

・明四つ(午前4時)昼九つ(午前12時)昼八つ(午後2時)暮六つ(午後6時)

 

 

拙ブログ

昔の金澤⑨30才で藩政を投げ出し隠居した10代藩主重教公

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明和8年(1771)に重教公は30歳で家督を4歳下の異母弟の治脩公に譲って隠居します。その後にもうけた息子の斉敬、次いで12代藩主になる斉広公治脩公の養子となります。10代重教公は天明6年(1786)6月12日に46歳で歿しました。

 

 

拙ブログ

加賀藩十一代藩主前田治脩公は元住職

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11278414281.html

 

第11代藩主となった治脩公は、学問の振興に力を注ぎ、藩の学校を創設。学問の明倫堂と武芸の経武館の両校で、初代明倫堂学頭に漢学者として名高かった新井白蛾を京より招聘し、また、小松にも集義堂と修道館の2校を開校させます。なお、7代から11代までの藩主が短期間に交代したため、100万石の大名に見合った儀式の費用がかさみ藩財政は依然として逼迫状態が続いきます。享和2年(1802)に先代重教公の次男である前田斉広公に家督を譲り隠居し、文化7年1月7日(1810,2,10)に66歳で歿しました。法名は「太梁院」です。

 

参考資料

【PDF】明倫堂・講武館等之図

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=9&ved=2ahUKEwilpfOv8YjjAhUZa94KHWjhAHUQFjAIegQIBRAC&url=https%3A%2F%2Fwww2.lib.kanazawa.ishikawa.jp%2Fkinsei%2Fgakkou2.pdf&usg=AOvVaw3uo8id8SXy7yZwtdw8nlsL

 

 

つづく

 

参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等