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猿楽から能楽へ⑤能楽の演目

【金沢・東京(江戸)等】

能楽の演目を遡って調べて見ると、世阿弥は能の役柄を、女、老人、直面(ひためん)物狂い、法師、修羅(しゅら)、神、鬼、唐(から)と9つに分類していますが、やがてそれは閑寂と品位「老体(ろうたい)情緒と幽玄「女体(にょたい)激しさと動き「軍体(ぐんたい)「三体」に集約され、現在は舞う舞の種類によって、序ノ舞物(非常に静かな品位ある舞)カケリ物(異常な状態で動き回る様子を表す所作)という分類もあるが、「神(しん)、男(なん)、女(にょ)、狂(きょう)、鬼(き)と云う「五番立」が普遍化したものと思われます。冒頭に「翁」を置き、「五番立」を演じ終えた後に祝言能まで演じるやり方は、最も格式が高いとされ、「翁」は、まったく別系列の儀式能で、1日の最初に演じられ、どこにも分類されないもので、翁、脇能(わきのう)、修羅能(しゅらのう)、鬘(かつら)・・・、という「翁付き五番立上演順位は、かなり昔から決まっていたようです。また、昔は、「五番立」の後にも何番も演じた例もあり、最後に祝言能で目出度く終わることになっていたらしい、17番上演の桃山時代の記録もあるそうです。

 

 

:能楽の演目の一つですが、別格に扱われる祝言曲で、最初にを演じる正式な番組立てを翁付といい、正月初会祝賀能などに演じられ、翁・千歳・三番叟の3人の歌舞からなり、役は白色尉三番叟役は黒色尉という面をつけ、原則として、に続いて同じシテ・地謡・囃子方で脇能を演じます。翁(式三番)は、古くは聖職者である呪師が演じていたものを呪師に代って猿楽師が演じるようになったものとされています。寺社の法会や祭礼での正式な演目をその根源とし、今日の能はこれに続いて演じられた余興芸とも言える猿楽の能が人気を得て発展したもので、そのため、能楽師狂言師によって演じられるものの、能や狂言とは見なされない格式の高い演目です。(参考:Wikipedia)

御能の演目

には、約250もの演目はあります。演目とは劇とほぼ同じ意味で、劇の中に舞いが入ったものが演目だと考えられていますが出来た当初は次々に新しい能の話がつくられ、それらの数が多くなるにつれて話を分類化するようになって行きます。その分類は五つに分け今日に至るまで残っています。

 

五つの分類の特徴

一、神(脇能物)二、男(修羅物)三、女(鬘物)四、狂人(雑能物)五、鬼(切能物)

五つの分類は上記のように主人公(シテ)の種類別に分類されます。

江戸時代までは能は狂言を間に挟み1日中演じられています。 能の演目を公演するときは上の五つの種類の物をそれぞれ1つずつ、計五つの演目を1日で上演します。毎回、1日の1番最初に演じるものを「一番目物」、2番目に演じられるものを「二番目物」、3番目に演じられるものを「三番目物」、4番目に演じられるものを「四番目物」、5番目に演じられるものを「五番目物」と呼ばれています。

 

 

能楽の上演形式

「翁」を冒頭に、能五曲とその間に狂言四曲を入れる「翁付き五番立」という番組編成が、江戸時代以来続いている猿楽の正式な演じ方で、観阿弥・世阿弥が活躍した室町時代初期から能と狂言の順序には、序破急の概念が重要視されました。

 

序破急:能楽の構成形式で全曲を“序・破・急”の三部分に分け、スピードだけではなく、精神的な昂揚構成上の盛り上がり等、あるいは一日の経過を考慮したもので、具体的には、「翁」という儀典的な能をした後、陽が沈むまでの間に、狂言を挟みつつ5種類の曲目を演じています。この序破急の考え方は、能楽のほか、舞楽、能楽、連歌、蹴鞠、香道、剣術、抜刀術、居合道、茶道など芸道論で使用される言葉だそうです。

5つの能の主な内容

1、脇能物(神能物)(一番目物)

神様が主人公。神は世の中の平和や安全などを祝福します。日本は、多神教で仏教・神道が融合しているので、神道・仏教のいろいろな神様が登場します。(もちろん殆どの話では一演目に一神)の前に演じられる「翁」の左脇に演目の名前が書かれたため「神能物」と呼ばれることもあります。

演目の例:高砂、鶴亀、養老、嵐山、老松など 


 

2、修羅物(二番目物)

能での「男」とは、武士のことを指します。その武士とは、平安末期に活躍した平家・源氏の武士たちがほとんどで、武士達は戦うことで、戦では人を殺すこともあります。仏教の考え方では、人を殺してしまった人は、死後は、亜修羅(修羅)という名の地獄に落とされてしまうので、 平家・源氏の武士達も死後は修羅の世界に行くことになります。そこで修羅に苦しむ武士は生前の世界(現世)に救いを求めます。その世界から救われる道は、ただ一つ。 他人(大概は僧)に自分の生涯や心を語ることだけです。そこで、武士は、自分の修羅の苦しみ生涯を語ります。

演目の例:敦盛、清経、忠度、経正、屋島など

 

 

狂言の初番目物(脇狂言とも):能の二番目物(男) 武人が仕手となる。修羅物とも。ほとんどが負け戦(負修羅)である。勝修羅は三曲(田村・屋島・箙)。序破急の「序」

 

3、鬘物(三番目物)

女性を主人公とした能。ここでの女性には、人間の美女はもちろん、天女などの美女や精霊(性別不詳)も含まれます。女性役は必ず(かつらのこと)をつけるので鬘物と言われています。

演目の例:羽衣、熊野、井筒、杜若、吉野天人など

 

狂言の二番目物:能の三番目物(女) 美人が仕手となる。鬘物とも。序破急の「破」

 

 

4、雑能物(四番目物)

主に狂女が主人公。医学や心理学が発達した今と昔では「狂い」の認識が違い、少し自閉症ぎみになったり、愛するものへの死別や恋わづらいのために周りを気にしないで人前で苦しむ行為を見せる態度も能では「狂い」と考えています。今も昔も人は愛で苦しむもの。それで愛をテーマにしたものが大半です。 愛をテーマにしたとも言われている「源氏物語」を題材にしたものもあり、女性は、苦しみの果てに鬼になってしまうこともあり、鬼が登場する能も多いです。また、一、二、三・五番目ものに入らないものも入っているので、雑能物と言われています。

演目の例:三井寺、恋重荷、 葵上、玉鬘、鐵輪、道成寺、小袖曽我、安宅など

 

 

狂言の三番目物:能の四番目物(狂) 狂女が仕手となる狂女物。狂とは精神が高ぶった状態を表すもので異常者ではなく、それ以外にも様々なものがここに入います。雑能現在物とも。序破急の「急」

 

 

5、切能物(五番目物)

人間ではない生物が主人公のもの。その生物は、幽霊や天狗・妖怪や鬼四番目物の鬼人間が突然変異したもの。五番目物の鬼生まれも育ちも純粋な鬼。)で、彼らは別世界から人間界に来訪します。人間界でいろいろなこと(善いことをするものも悪いことをするものもいます。)をして、最後には自分の世界に帰っていきます。 全体的に豪快で・テンポがよいものが多く、一日の最後(キリ)の演目、という意味から切物能と言われます。

演目の例:殺生石、猩々、土蜘蛛、紅葉狩、船弁慶など

 

 

狂言の四番目物 止狂言とも:能の五番目物(鬼) 鬼、天狗といった荒々しく威力のあるものが仕手となる。切能や鬼畜物とも言われています。序破急の「急」

 

能の流儀(流派)

能役者は、シテ方、ワキ方、囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方)、狂言方と役割が分かれており、それぞれに複数の流儀(流派)があり、現在の流儀は以下の通りです。

 

 

シテ方:観世流・金春流・宝生流・金剛流・喜多流

ワキ方:宝生流・福王流・高安流

笛方:一噌流・森田流・藤田流

小鼓方:幸流・幸清流・大倉流・観世流

大鼓方:葛野流・高安流・大倉流・石井流・観世流

太鼓方:金春流・観世流

狂言方:大蔵流・和泉流

 

 

「今日の能は宝生流だ」「金春流の羽衣を見た」などと言うときは、シテ方の流儀のことを言っています。ただし、観世流の能の時は囃子方も観世流で揃えなければならないとか、金春流の能だから太鼓も金春流でなければいけない、などということは全くなく、ワキ方、囃子方、狂言方、どの流儀も、シテ方のどの流儀の相手もできるし、互いにどのような組み合わせでも上演ができるようになっています。

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・日本大百科全書(ニッポニカ)「能」の解説「増田正造 2018年7月20日」・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか

 

 

 

猿楽から能楽へ④今様能狂言と泉祐三郎の「照葉狂言」

【金沢・小松・京都】

幕末、御能の空白時代に京都では今様能狂言が大流行します。その源は文化文政の頃、京都で起こった仙助能と云う異端の能狂言で、堀井仙助という能役者が、秘伝の曲を家元の許しもなく演じたもので、家元から破門され、終には辻能をし、習事であろうが一子相伝の密事であろうがお構いなし、面白くやっていたので、お上からお咎めを受け、あちこちから迫害にあいますが、京都の庶民は弱い者いじめに映ったのか、判官びいきか?人気となり、全国各地に伝播していきます。

堀井仙助幕末上方(関西)の喜多流のツレ方で家元から破門され、加賀藩でも嘉永元年(1848)6月に宮腰の港で仙助能を興行しています。今様能狂言と名乗るようになったのは堀井仙助の相続者林寿三郎からと云われています。)

 

(若葉・老松に有らず!)

 

今様能狂言は、当時、高嶺の花と諦めていた大衆から熱狂的な支持を得ます。謡本でしか知らない曲目が寄席のように肩を張らずに見ることができ、しかも、女性の出演三味線伴奏や舞踊を取り入れ大衆に大いに受け大人気となります。さらに明治維新が後押し好機到来となります。金沢での今様能狂言林寿三郎一座が明治元年(1868)9月、巽御殿での藩主の上覧、都合6回も来沢し、病を得て明治16年(1883)7月金沢病院で没するまで、その後門下の泉祐三郎に継がれます。明治20年(1887)前後には、金沢の能両太夫(諸橋・波吉)の能興行は絶えていて、当時、金沢の十二銀行支配人辰巳啓氏と富豪呉服商能久の後援を得た泉祐三郎一座は、木倉町(古寺町とも)に舞台を構え、そこを拠点に東京・京都・名古屋・松山の一流館等、各地に出稼ぎに行っています。

 

(今の成巽閣・兼六園側)

 

(小松梯天神社能舞台は、金沢の東馬場にあった波吉家の能舞台であったものを明治29年(1896)に金沢から小松に移築したもので、廃藩置県後の金沢で流行した今様能狂言泉祐三郎一座の使用した舞台で、「金沢の能楽(梶井幸代・蜜田良二著)によると「泉祐三郎一座の舞台は、もと、波吉家の舞台であったというから、波吉一家が、明治20年上京したとき移されたものであろうか?今この今様能狂言の舞台は、小松の梯天神社へ移されている。小松では移築の工事半ばで日清戦役がおこり、雨ざらしで放置されたのを修築して明治29年(1896)舞台開きをしたということである。」と「加越能楽・第4号」に書かれています。)

 

 

今様能狂言の特色

❶能楽の規範を脱し、舞踊、三味線を入れたこと。

❷女性を入れ、女性が男役を面も付けずシテ役を演じる。

❸一人多役制で、シテ方、打方、狂言の分業を排したこと。

などの特色があり、室町以来の女猿楽江戸の女郎歌舞伎禁止以来の伝統を破り、お国歌舞伎の再来とばかりの大人気を博したと云います。当時、扶持から離れ職を失った能役者地歌方、囃子方の多くが一座に投じ、金沢の能役者の一部も一座に投じたという。その頃、能役者の孫23歳の泉鏡花泉祐三郎一座をモデルに書いた小説「照葉狂言」で好評を博しています。

 

(泉鏡花)

 

拙ブログ

泉鏡花➁照葉狂言

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10660403163.html

(泉鏡花の見た「照葉狂言」は、泉祐三郎の一座であったものと思われるが、それには泉祐三郎の妻小作を中心に小親・小雪・小里の女役者たちで構成され、小説のように新町の空地に小屋を掛たり、尾山神社の舞台で演じていますが、上記のように後援者が付き自分の舞台を持つようになるところからも、当時、金沢では余程人気があったものと思われます。)

 

(尾山神社)

 

(照葉狂言:明治期に行われた舞台芸能。「てりは狂言」ともいう。正岡子規は「散策集」「てには狂言」と記され、今様能狂言ともよばれた。能狂言と歌舞伎が交じり合ったもので、能の四拍子(笛・大鼓・小鼓・太鼓)のほか三味線を加えた囃子に踊り・歌謡・音曲を入れ、女役者を多用。起源は江戸時代という。いろいろな一座があったが、四国の高松生まれ泉祐三郎一座の芸が優れており、松山にもしばしば来演泉鏡花に小説「照葉狂言」高浜虚子「俳諧一口噺」「楽屋」一座の回想を描いている。Wikipedia等

 

金沢を拠点に全国展開も夢ではないと思われた今様能狂言は、パトロンの死により大正時代に入ると泉祐三郎一座は解散します。最後の金沢での興行は明治44年(1911)10月、下新町第四新富座(泉鏡花の生家の向かい)でした。金沢能楽の座を乗っ取ることは出来ず、所詮、流行りモノ、お色気で勝負した、あだ花か? 当時、金沢の能楽師の間では「あれは今様(いまよう)に居た者(もん)で」と出身を卑しめていう言葉があり、明治40年頃まで一時的に人気があった今様能狂言に加わった人を指したものでした。

 

(下新町・第四新富座辺り)

(今の鏡花記念館)

 

(この時代、旧藩時代の能役者も本業の衰微により、生活の為に今様能狂言に走った者もいたであろうが、やがて本格的な能が復興すると元の仲間内から蔑まれてしまうと云うのは、何時の時代も世も常ではあるが、そのことを書いて世に出た能役者の孫泉鏡花もいたりして、世の不思議な因縁を感じられます。しかも鏡花の文学は他に類をみない夢幻能妖艶な幻想の美しさを伝えていて、今もフアンが多いという。)

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか

猿楽から能楽へ③前田家と明治の能楽復興

【金沢・東京】

明治初期の東京は、金沢とは比べものにならないくらい早く“能の崩壊”が進み、しかも残酷でした。その混乱の中で能好きの前田の老公斉泰は思いもかけない役割を果たしています。維新後に観世宗家徳川慶喜に従い静岡へ、宝生宗家鎮守府(日本海軍)付きに任官し、東京に残って能を続けているは、「金剛の舞台」と梅若六郎家の「梅若の舞台」だけ、将軍家や諸藩のお抱えの役者・囃子方・狂言方の多くは四散放浪するより仕方がなかったと云います。

 

梅若六郎家:丹波矢田猿楽の一座から出て、江戸時代、観世座のツレ方として能楽五流の次に位置を占め、特別の待遇を受けていました。明治になって東京で猿楽を守り続けたのは、観世流では初世梅若実(52世梅若六郎)と五世観世鐵之丞で、梅若実は文政11年(1828)に日光山御門跡輪王寺北白川宮御用達の鯨井平左衛門の長男として生まれ、当時、梅若六郎家鯨井家から巨額の借金をしていたが梅若六郎家跡継ぎ男子がおらず、鯨井家子供梅若六郎家を継ぐことで借金を棒引きにするということになり、(52世梅若六郎)梅若六郎家に養子入り、幕末には、赤貧を洗うどん底が、かえって勇気を得て明治2年(1869)に東京厩橋で梅若の敷舞台を開き、後に鎮守府に任官していた宝生九郎を舞台に呼び戻し、明治の能の復興の希望の灯となります。)

 

「杜若」兼六園)

 

明治4年(1871)岩倉具視は、大使として欧米視察に出かけ、外国では他国の正式訪問者の接待に、オペラという礼服着用の楽劇があることを知り、それに近いものとして将軍大名の式楽として用いた猿楽に思い当たり、随行員の西岡、久米にはかり、能の復興をすすめ梅若の舞台で能を見て、明治9年(1876)4月4日、岩倉邸へ明治天皇、皇后の行幸啓を演じ、2日目皇后、皇太后、3日目は親王、内親王を迎え、成功裏に終わり以後大官、華族邸への行幸啓には能の催しがつきものになりました。

 

(岩倉具視)

 

2日目に、前田の老公斉泰「満仲」シテ前田利鬯「鉢木」シテを勤めています。その日の前田父子はビッグスターで、ほかに華族の名も見え、狂言方でも、三宅庄市や野村与作の元加賀藩の和泉流狂言のお抱えの役者も加わっています。この番組は、岩倉の相談に斉泰があずかって梅若実の裁量で出来上がり、臨時御入能のかたちで、宝生九郎を舞台に復帰させています。その後、英照皇太后は能を好まれ、明治11年(1878)青山大宮御所内に能舞台を設け、舞台開きに観世宗家も静岡から、金春参加し、喜多を除く四座の太夫によるが催されています。さらに明治12年(1879)アメリカの前大統領グラントが来朝し、岩倉邸観能され、絶賛をえて能の保存が叫ばれ、華族の中から国楽として保護する機運が高まってきました。)

 

(金剛流)

 

明治14年(1881)4月16日には、5人の華族らによって能楽社が発足し、芝公園能楽堂舞台開きが行われ、新しい能楽の道を歩みだします。因みに能楽社の発起人は前田斉泰前田利鬯を含む華族5人で、能楽社第一社員は金沢15代前田利嗣、第二社員は富山13代前田利同が参加しています。明治16年(1883)7月20日には岩倉具視が、明治17年(1884)1月16日には前田斉泰の死という打撃があったものの明治20年(1887)には、黒田長知、池田茂政、前田利鬯、井伊直憲が連署して「能楽保護請願書」を宮内大臣に提出し、宮内省から金一封を基金として能楽保存会が能楽堂のテコ入れに力を注ぎます。

 

前田斉泰関連記事(前出)

明治13年(1880)、岩倉具視邸の会で新しい「御能」の呼称が検討され、幕府の「御能」、京都の「乱舞」、室町の「猿楽」、古称の「散楽」等に代えて、新しく「能楽」を使用することが決まります。検討を依頼した前田斉泰候は満足して、翌年舞台開きの行われた芝能楽堂へ自筆の「能楽」額と「能楽記」と云う文章を掲げ、能楽復興の中心にいた人々の宣言を経て次第に諸方面で定着して行きます。

 

金沢の能楽復興≫

明治初期は能楽にとって受難の時代でしたが、見方を変えれば広く民衆に解放された時代でもありました。江戸時代には、能のシテ方を舞えるのは藩主万石武家、御手役者だけ、そして家元制度にしばられ庶民は謡だけで、世阿弥がその昔“能は衆人の愛敬によって支えられるべき”と云っていますが、江戸時代までは、一般庶民が関われるのは「小謡」と呼ばれる謡曲の一節とせいぜい囃子を舞えるだけ、特別な町人の町役者に加わることは出来たが、主役シテ方を舞うことはなかったと云います。

 

(謡本)

 

御手役者の芸は一子相伝で、これは他人が見ることも習うことも出来ない秘伝でしたが、維新後、御手役者諸橋権之進相馬勝之と名を改め、その秘伝履物商(鼻緒問屋)の佐野吉之助に伝授します。まさに明治維新で消えそうになった伝統芸能“加賀宝生”を救ったのです。明治初年から明治33年(1900)吉之助が自らに能楽堂を建設するまでの33年間を振り返ると、明治19年(1886)成巽閣の舞台で相馬勝之の一世一代の催能に際し「藤」を舞ったのが吉之助の初舞台で、その時24歳。明治20年(1887)鍛冶八幡の舞台開き(元野村蘭作の舞台)に「吉野静」を舞います。武士でも御手役者でもなく、一人の町人がシテ方として登場します。江戸時代の事を思えば画期的なこと金沢の能楽の復興の礎と云えます。)

 

(宝生流)

 

佐野吉之助

佐野吉之助の家は町人で、町役者を勤めた町人でも肝煎など町会所出入りの家でもなく、元治元年(1865)に金沢で生まれています。家業は堤町で鼻緒問屋を営み(30歳過ぎには犀川大橋詰に移転)、明治13年(1880)に相馬勝之(諸橋権之助)に弟子入り謡や型の稽古を受け、この他には元前田家の茶坊主で素人上がりですが謡の調子が良いと評判代書人石橋和平に習っていますが、吉之助が一番私淑奥義を受け継いだのは相馬勝之でした。明治26年(1893)に石川能楽会が結成され、吉之助は伝統の能を滅ぼしたくない一心から稽古能は益々熱心になり能に嵌っていきます。その頃、商売はそっちのけで親戚から絶縁されても、私財を投げ出し能舞台の建設を始めますが、工事は遅々として進まず、瓦が半分程で放っておかれたりしながら、明治33年(1900)に完成し、商売をやめて能役者として踏み出します。明治35年(1902)頃に単身上京、石橋和平の紹介で16代目宝生九郎に師事します。なんと行っても吉之助第一の功績は、明治維新後に危機に瀕した加賀宝生の隆盛に尽くしたことでした。

 

 

(明治34年(1901)には、石川能楽会を改組し金沢能楽会を発足させ、4月1日、第一回定例発表会に漕ぎ着けます。金沢能楽会は、金沢の第四高等学校の校長北条時敬の斡旋で、当時、尾小屋鉱山で成功した横山男爵一門の経済的な援助により成立したもので、以前から吉之助横山家を結び付けていたと云われているのが、金春流太鼓御手役者(江戸詰)の斉田千十二で維新後、食い潰し金沢の佐野家を寄せて居たこともあり、その縁から横山家には能舞台の建設もかなり援助が有ったものと思われます。)

 

拙ブログ

寺町の幻の大別荘と一部現存する庭園③

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11622959275.html

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか