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猿楽から能楽へ②加賀藩(金沢藩)も能も崩壊

【金沢・東京】

金沢城に鼓の音が絶えて6年!!徳川300年封建体制も瓦解し、明治維新を迎えた明治元年(1868)11月23日。老公斉泰金谷御殿の舞台を催し、翌明治2年(1869)1月15日午前9時~翌16日午前4時まで、母眞龍院の八十賀(当時85歳)のお祝い北越戦争も治りその祝いのための巽御殿(成巽閣)で催されています。記録によると、御手役者を召され、先ず一同はお庭(現兼六園)拝見、それより天満宮楽殿(現金沢神社)御舞囃子が始まり、(現兼六園霞ヶ池)では3艘の舟を浮かべ、藩主慶寧公「唐船」ったと伝えられています。その年の6月、慶寧公明治天皇に供奉し、諸藩に先立ち版籍奉還して慶寧公金沢藩知事になります。そして北越戦争の功労があったとして政府は慶寧公賞典録15,000石が与えられ、それを祝して金沢では、金谷御殿の普請の祝いをかねたを催し、市民は盆正月を行いしています。

(この時は、金沢藩では先行きを見通せなかったようで、藩知事となった慶寧公も卯辰山開拓など諸般の改革を行い東京と金沢を奔走しています。明治4年(1871)7月15日、慶寧公は留守であったが老公斉泰の還暦を祝いがあり、御手役者など数十名が召され、料理金子目録の下され、往時の加賀藩の盛儀を彷彿させるものであったと伝えられていますが、これが金沢城での“最後の能の宴”となりました。)

 

(兼六園の霞ヶ池)

 

(眞龍院(鷹司隆子):加賀藩12代藩主前田斉広公の正室(関白鷹司政煕の二女)。斉広公とは、死別するまでの18年間、共に生活したのが実質3年ばかり、斉広公は文政5年(1822)に隠居して竹沢御殿に住み、文政7年(1824)7月に没すると落飾し眞龍院と称し、天保3年(1833)2月、駒込中屋敷に移ります。斉広公との間に子女はなかったが、金沢で生まれた側室との子女が成長すると江戸に引き取り婚儀などの面倒を見ています。天保9年(1838)8月、幕府より帰国願いの許可が下り、同年22日金沢に入り、その後は金沢で過ごします。文久3年(1863)、13代藩主前田斉泰公は、嫡母のために竹沢御殿の一部(謁見の間・鮎の廊下)を移築し隠居所巽御殿(現成巽閣)を建て、そこで明治3年(1870)6月8日、巽御殿にて86歳で歿しました。)

 

(成巽閣)

(金沢神社)

 

明治4年7月14日(1871年8月29日)、明治政府は、それまでの藩を廃止して地方統治を中央集権により税等一元化した「廃藩置県」が施行されます。慶寧公藩知事らは免官令が出され、9月までに家族を含め東京移住を命じられます。それはまた旧藩主旧藩領から引き離す政策で、前田家は東京に移り、庶民にも冷たい現実に直面します。そんな中でとくに辛酸をなめたのは能役者であったと云われています。明治元年(1868)の春、江戸居住の御手役者金沢で居住するよう仰せつけ、金沢では家もなく、他に手職もない人たちは行き場に窮し藩に泣きついたと云う話もありますが、もっとも幕府のお抱えの役者も同様で、竹笠を編んだり、渡しの船頭をしたり、宝生の家元が蝋燭屋をして失敗したとか、金沢藩ばかりの話ではなかったようですが、金沢では明治5年(1872)には能役者の扶持を打ち切りにしています。

 

(一時はその数約200名を数えて能役者は、明治5年(1872)以後どう生活したのでしょうか?町役者は元々本業を持つ町人で、能は兼業に過ぎず、しかも中以上の町人で、家産も持ち町の肝煎組合頭を務めていたものが多く、維新の改革で受けたダメージは少なかったと思われますが、御手役者能芸の専門家芸一筋に生きて来たもので、弟子の養成もして来たでしょうが、基本藩主やその一族の稽古のお相手を勤め、藩の儀式能や藩主の慰能を本務としていた人達で、藩主がいなくなった世の中では、そのままでは生きるすべはなく、シテ方、ワキ方、囃子方を通じて御手役者は、その芸統を捨てて、家そのもの絶家しました。それに比べれば町役者は、比較的長く生き残ります。)

 

 

拙ブログ

明治維新の前田家財政➀版籍奉還・廃藩置県

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御手役者の重鎮、京都在住の金春竹田権兵衛は金沢に居宅はなかったが幕末になると積極的に金沢に来ていて木の新保に舞台持っていたほどであったが、明治になるとその行方がようとしてつかめなくなり、金沢の諸橋権之進は明治2年(1869)観音院と寺中の能を最後に、栄光の名諸橋権之進の名を封印して、以前の本姓相馬を名乗り相馬勝之となり、老公斉泰の還暦の能を勤めた後、明治11年(1870)の石川県立博物館(現成巽閣)や尾山神社の能舞台の落成時に舞い、明治19年(1886)成巽閣の舞台四番の能ですが、還暦を前に一世一代と称する催能をしています。特記すべきは明治から昭和まで金沢の能楽界を引っ張った功労者佐野吉之助初舞台であったと云う。

 

 

拙ブログ

明治の博覧会と博物館―金沢

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波吉宮門(号紅雪)の消息は浅野川馬場の波吉舞台尾山神社の舞台での記録は有るものの、「自分の芸は殿様に見せるための芸であるとし、弟子に教えることはない」と云っていたらしく、自分の舞台一人舞っていたと能役者の間で伝えられています。波吉宮門(号紅雪)は明治18年(1885)に、諸橋権之助(相馬勝之)は明治28年(1895)に世を去り子孫は金沢を去ります。以上、明治10年代から20年代、金沢ののもっとも沈衰した時代であったと伝えられています。

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・日本大百科全書(ニッポニカ)「能」の解説 増田正造著

猿楽から能楽へ➀前田家は猿楽好と猿楽を芸術に高めた世阿弥

【金沢・江戸】

前田家何故、歴代藩主や家臣が猿楽を好んだのか?いや、前田家に限らず武士は室町時代から猿楽を嗜(たしな)んだのでしようか?そう云えば、戦国時代大名や武士は猿楽茶道が必須だったとも聞きます。その理由として、一般的に、上が好むところ下はこれに習うと云うもので「足利将軍家が猿楽に興味を持ち役者を庇護したので他の大名・武士もそれに習った」とか、能には武士の悲哀を描いたものも多く「能の人生観、死生観などが当時の武士に共感するものだった」と云われています。

 

 

さらに、現代のゴルフや飲み会のように「観能の場が武士同士の社交、情報交換の場になった」とも云われています。しかし、前田家の歴代藩主を調べると、特に江戸後期には、藩主自身の気晴らし現実逃避、はたまた、領民へ権威を見せつけ畏怖の念を押し付け、さらには神事として領民の安寧を祈ると云う藩主の思い込みも有ったように思われます。

茶道は、「名器の茶器を所有することが武士のステータス戦功で土地の代わりに茶器が与えられた」「狭い茶室は密談に適していた」「武士同士の交流だけではなく、普段は直接交流しにくい武士と町人が茶道を通して交流した」などの理由があったようです。)

 

 

拙ブログ

“能”に明け暮れた斉広公、竹沢御殿③

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いずれにしても、猿楽、茶道ともに室町時代に武家の間に広まった文化で、和歌などは公家の文化で、武家自分たちで“作り育てた文化”を大切にしようと思う気持ちが窺えます。

 

(歴史を少し遡ると芸能者(猿楽・田楽)は常に地位は低く、はみ出し者扱いを受けています。の役者で作家、経営者の世阿弥が将軍足利義満に愛され、祭り見物に盃の遣り取りをしているのを見た貴族「あのような乞食同然の者と将軍が」憤激したという記述が今も残っています。さすがに江戸時代に入り能は幕府の式楽として、士分の待遇を受けるようになり観世に禄高256石を支給されると、能役者の地位は向上しますが、新興の歌舞伎浄瑠璃の芸能者は「河原乞食」と蔑まれています。)

 

 

猿楽伝説:演目と観阿弥・世阿弥

猿楽(能楽)の演目とはとほぼ同じ意味で、劇の中に舞いが入ったもの演目だとされています。その脚本(謡曲)として伝えられているものは2000種を超えると云われていますが、現在、五流派あわせて正式の現行曲は260曲余と云われています。主なものは観阿弥から約200年間にわたって創作されていて、作者が確かな作品半数ほど有り、ほとんどは能役者自身が書いています。それは、能が一種の歌劇で、作詞と作曲と作舞が緊密に同時進行する必要があったからで、世阿弥作能のためには歌道を学べと云っています。

 

 

世阿弥「本説正しき能」を力説しています。それは古典歴史に取材したで、「古事記」から「曽我物語」までの幅広い先行文芸に題材を求めています。これは観客知識を刺激して相乗効果を狙ったもので和歌の”本歌取”に似ています。謡曲の文体も論理的展開よりも、耳に訴える美感を狙い“連歌”のようなイメージで展開され独特の詩劇を創り出しています。

 

 

父の観阿弥は、「松風」「卒都婆小町」「通小町」「自然居士」など、会話をドラマチックに書く作家だといわれています。座の経営者でもあった子の世阿弥は、他の座に格差を付ける為もあり、情念を昇華して、緊密で優雅な能を創り「高砂」「老松」「清経」「実盛」「井筒」「檜垣」「班女」「砧」「恋重荷」「鵺」「融」など、来世と現世を現わす回想形式による夢幻能を創作します。

夢幻能:霊的な存在が主人公となるのが夢幻能の特徴で、能には夢幻能の他に現在能があり、現在能は生きている人間のみが登場します。夢幻能という名称は、霊的な存在があらわれたのがワキの夢の中とされています。

 

(世阿弥:室町時代の能楽師、世阿弥は実は能役者、作家であるだけでなく、結崎座(観世流)を率いる経営トップでした。また、世阿弥が記した能の理論書「風姿花伝」は、亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述で、もともとは公開が前提ではなく、後継者に伝えるための秘伝の書だったという。さらに世阿弥は、40歳ごろから約20年にわたり、芸の知恵を息子元雅に書き継いだ伝書「花鏡」も残しています。71歳で佐渡へ島流し、80歳で歿しました。また、後世に残る名言「初心忘るべからず」「秘すれば花」などを残しています。)

 

是非の初心忘るべからず。

時々の初心忘るべからず

老後の初心忘るべからず。

 

本来の意味は「未熟だったときの芸忘れることなく、その年齢にふさわしい芸に挑むということ(その段階においては初心者その次元ではまだまだ未熟さつたなさがあり、その一つ一つを忘れてはならない。「老年期になっても初めて行う芸というのがあり、初心がある。年をとったからもうイイとか、完成したとか云うことはない」とあり、そのときどきで、自分の心の状況を意識して、変えていくという意味合いか・・・。勝手に云わせて頂ければ“今日の最高を明日の最低に”とか“職人の一生修行”など、ニュアンスの違いはあるものの意味は近いかも・・・?

老後にも初心があり「初心」「初体験」と言い換えると分かりやすいと、何かの本に書いて有りました。

 

 

 

下記リンクは、まさに、「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。」世阿弥の教えそのもので、教育者として、として、どのように子どもに伝えるべきか、さらに、年齢を経ていくことにも広げており、世阿弥は芸能論として書いていますが、教育論、人生論としても秀逸です。ご参照頂ければ幸いです。

 

世阿弥の言葉:7段階の人生論―the-Noh.com

https://www.the-noh.com/jp/zeami/7stage.html

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・日本大百科全書(ニッポニカ)「能」の解説 増田正造著・(世阿弥の言葉:7段階の人生論―the-Noh.com)https://www.the-noh.com/jp/zeami/7stage.html.com/

 

金澤の御能⑪幕末加賀藩の御能

【金沢・江戸】

斉泰公利鬯(大聖寺藩主・斉泰七男)は、安政6年(1859)1月から3月まで諸橋権之進・波吉宮門等を召して、自ら盛んに能を舞っていますが、4月には「安政の泣き一揆」が、越中伏木沖にロシア船が出現し沿岸防衛。さらに5月には領内に洪水、8月にはコレラが流行り、能の催しは9月までなく、12月4日、謹慎中の世嗣慶寧公は金谷御殿で「翁」「野々宮」い、「阿槽」「海人」太鼓を打ち、25日に金谷で「江口」「鉄輪」の能を演じ、「石橋」太鼓を勤めています。世嗣慶寧公は領民の労苦を知ってか知らずか?御能は次第に上達したと伝えられています。

利鬯(としか):加賀大聖寺藩の第14代(最後)藩主。宝生流家元宝生友于に学び、素人ながら芝公園能楽堂の舞台にも立ち、また謡250番を諳んじていて、どんな曲でも求められれば即座に謡うったという。晩年は失明同然であったが、それでも舞・謡ともに変わらずに勤めたという。)

 

 

 

拙ブロブ

伝説ですか実話ですか「安政の泣き一揆」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11282842364.html

 

安政7年(1860)3月3日(3月18日より万延元年)には江戸で桜田門外の変があり、斉泰公は15日から府下の警備が命じられたが、まもなく帰国して、利鬯(大聖寺藩主・斉泰七男)らと何度も舞い、また11月に竹田権兵衛が、京から来たので共に演能します。12月には「山姥、白頭」を、文久元年(1861)謡初めを勤めた後、1月末に「野守、白頭前後留」2月末は「石橋、連獅子」を勤めてから帰京しています。利鬯は参勤の途上、金沢城に立寄るならわしから、3月にも金沢城で「氷室」「七騎落」を演じています。

 

(金谷御殿・現尾山神社)

 

世嗣慶寧公は、その年帰国後の10月、金谷御殿で、「八島、鞍馬天狗、白頭別習」を演じ、翌文久2年(1862)2月27日「嵐山、巻絹」を舞い、権之進の「道成寺」太鼓を打っています。3月6日「綾鼓」「芦刈」の能と、「船弁慶」の太鼓を演じ、斉泰公は、4月、5月、毎回二番あるいは三番の演能を試みていて、52歳と32歳の親子は、国事多難な折にも関わらず、気晴らしか?現実逃避なのか?いな否、能はもともと神事であり、領民の安寧を祈り演じていたのでしょう。
 

 

しかし、年が明け文久3年(1863)には、年頭の諸行事を簡略にし、謡初めを廃し、1月2日には上洛の予定の下に前田土佐守を先行させ、2月23日に斉泰公は上洛し建仁寺に入ります。3月12日には金沢に帰り、文久3年(1863)9月、京都御所の禁門(蛤御門)警衛を命じられていますが、藩主代理として世嗣慶寧公に当たらせています。そして元治元年(1864)7月の禁門の変、さらに、戊辰戦争、明治維新と激動の中、さすがに斉泰公、慶寧公演能の記録は明治2年(1869)まで5年間見えません。

建仁寺:幕末期には加賀藩主斉泰公慶寧公がたびたび上洛しますが、すべて建仁寺に入り滞在しています。これは、随従する多くの藩士を京都に滞在させるには河原町の三条屋敷では規模が小さいためで、建仁寺全体を借り受けたわけではなく、必要な範囲にかぎって借り受けています。)

 

(京・建仁寺)

 

禁門の変:元治元年(1864)7月の禁門の変では、当日の朝、世嗣慶寧公は病気と称して京を離れ、加賀藩領である近江の海津に退きます。このことが、加賀藩を苦境におとしいれることになり、藩主斉泰公は朝廷と幕府の両方に対し陳弁し、世嗣慶寧公を幽閉し、側近の松平大弐を海津で切腹させ、他の勤王派と目される藩士40数名死刑・禁獄・流刑などに処せられます。いわゆる、加賀藩の「元治の獄」です。これで加賀藩の勤皇派ほぼ全滅となります。)

 

(全性寺)

 

宝生紫雪の死≫

宝生紫雪(友于(ともゆき)石之助、弥五郎)は、宝生流15世宗家で嘉永6年(1853)12月に隠居。文久2年(1862)6月3日の「毎日帳抜書」によれが、「妻子を連れて、山中温泉に湯治に来て、山中から金沢に来たところ病人が出たので、金沢に暫く逗留する」と申すので弟子筋の波吉宮門が町奉行に届出しています。同書の翌文久3年(1863)7月17日の条に「逗留中の紫雪が死んだので、妻子は全性寺に紫雪を葬りたいと願うので寺社奉行に申し断じて、処置することにした」とあります。同寺は赤門寺と呼ばれる日蓮宗の寺で、紫雪の墓の他に諸橋権之進・波吉宮門の墓もあり、ほかに加賀藩能楽師(葛野流大鼓方)の小説家泉鏡花の母鈴(すず)の実家中田家の墓もあります。

脱線:鏡花と云えば伯父の松本金太郎(鈴の次兄)、明治の有名な能楽師でその道の実力者でした。金太郎は、宝生流シテ方松本家の養子になり、16世宝生九郎知栄(ともはる)の高弟として明治期の宝生流を支えます。鏡花の作品には、江戸期の影響を強く受けた怪奇ロマン的な特徴がありますが、その幻想的な作風は、能も色濃く影響していると云われています。)

 

 

拙ブロブ

“心の道”癒しのスポット⑩全性寺

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11196462680.html

宝生紫雪先生と浅野川稲荷神社

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10559309654.html

 

(十五世宝生紫雪友于(ともゆき)とも、14世英勝の孫で、嗣子であった友勝の子丹次郎が早世したため、婿に入った邦保を後嗣としますが、邦保も英勝に先立って亡くなったため、孫の友于が大夫を継ぎます。やがて、友于家斉家慶の両将軍の指南役となり、前回にも紹介した前田慶寧公の師であり、宝生流は引き続き隆盛し、栄光の時代を迎えます。この時代の輝く事績は、弘化勧進能の興行です。これは弘化5年(1848)2月6日~5月13日、晴天15日間にわたり江戸神田筋違橋門外にて、宝生大夫一世一代能として行われた、江戸時代最後の勧進能です。観客は1日平均4000人数えるという大盛況で、 友于と長男の石之助(後の十六世九郎知栄)と共に、全国の役者が集まり、舞台を盛り上げました。番組でも、「春日龍神 白頭別ノ習(龍神揃)」といった大人数の新演出も生まれ、数々の金字塔を打ち建てた一大イベントとして、弘化勧進能は、時代を超えて語り継がれています。友于はこのほか、嘉永六年(1853)に「嘉永版」謡本を出版するなど、さまざまな業績を残した後、九郎知栄に大夫を継承し、1年ばかり金沢に隠棲しその地で文久3年(1863)7月に歿しました。)

 

(現存する旧壮猶館の門)

 

壮猶館爆発事件と能役者≫

慶応2年(1866)3月7日、壮猶館の弾薬所火薬が爆発!!金沢城内での能御用がなくなって能役者が、配置転換で慣れない弾薬所の仕事に従事し、多数が死傷するという不祥事が有りました。装薬をこしらえているところから発火し、建物は飛散します。長さ十間に奥行き三間並びに土蔵前の土間のところ三間四方、同所下屋一間に二間ばかり、土蔵の屋根も残らず焼失しました。近年、国事多難で、能関係者は殆ど休業状態。何もすることがなくなり雇われて働いていたもので、即死者2人を含め死傷者15人(内御細工人1人)以下詳細は、拙ブロブ「幕末の爆発事故!硝石は改築の町家から採集」参照。

 

拙ブログ

幕末の爆発事故!硝石は改築の町家から採集

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11160339841.html

 

 

この年慶応2年(1866)4月5日、慶寧公が家督相続し、27日、斉泰公は金谷御殿に移ります。翌慶応3年(1867)正月に年頭儀礼は廃止され、5月1日、斉泰夫人(溶姫)歿し、翌4年(1868)9月徳川幕府は終焉し明治と改元されます。

 

つづく

 

参考文献:「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等