インド仏跡巡礼⑪カピラ城/釈尊のお骨 | 創業280年★京都の石屋イシモの伝言

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カピラ城は、釈尊が生れてから29歳で出家の為に家出するまで、
王子時代を過ごした実家の城である。

釈尊は約2500年前、釈迦族の浄飯王と摩耶夫人の王子(長男)と
して生れたが、その時、アシタ仙人が「この子は将来、偉大な
教えを治める仏
になる」と予言したと、伝えられている。

王は後継ぎが出家しては困る為、冬と夏、そして長い雨季を快適
に過ごせる三つの宮殿を建て、王子に、何百人もの女性の従者を
つけて、歌、踊り、音楽と御馳走の溢れた、贅沢な日々を与えた。

この世の不浄、不快、不吉なものを遠ざけた、優雅な生活だ。

だが、王子には全てが虚しく見え、やがて“或るキッカケ”
元に出家を決意。夜中に城をこっそり抜け、修行の旅へ向う。

既に、16歳で美しい妃を得て、ラーフラと云う男子も授かって
いたにも関わらず。王子は全てを捨て、カピラ城を出て行った。

その、カピラ城跡に、私達のバスは着き、エンジンを止めた。

                  

現在、カピラ城は、ネパールのティラウラコット遺跡とインドの
ピプラハワ遺跡の二か所で「オラんとこが、本家カピラ城」と
主張しあっているが、まだ決着はしていない。

両方とも、カピラ城内の遺跡だと云う、考えもあるようだが、
とりあえず、今回、私が見たのは、インドのカピラ城である。



初めに、釈尊の骨壷とされる壺が発掘された、ストーパ(仏塔)に
案内された。小さなレンガを膨大な量、積んで造られている。
これだけでも、気が遠くなるような仕事である。


 
表面の化粧は風化して無い。元は、表面を土などで綺麗に仕上げ、
大きく平たい、メロンパンのようなな形だったのだろうか?

頂上には何か、笠を重ねたような飾りがあった?、のかも知れない。

 ◆現地看板記載の写真を撮影

ところで、釈尊の骨壷とされる壺だが、英国人のウイリアム・C
・ペッペにより1898年に発掘されている。

壺は石製だが、表面に古代インド語で“釈尊のお骨”と刻まれて
いたと云うのだから、驚きである。

発見された壺は、現在、ニューデリー国立博物館で見られる。

そして、中に入っていた“釈尊のお骨”は、仏教国のタイ王室
へ寄贈され、タイからさらに、現在のスリランカ、ミャンマー、
我、日本にも贈られ、日泰寺(名古屋)に分骨されている。

日泰寺の名前は、日本とタイの友好の証しに、つけられている。

日泰寺は、どの宗派にも属せず、運営は19宗派の管長が
輪番制により、3年交代で住職をつとめて、行われている。

何年か前に縁があり、この日泰寺を拝観させて頂いた。

しかし、当時は寺の名も知らず、お釈迦様のお骨が日本に存在
する事にピンとこなかったが、実際に今、目の前のストーパから
発掘し分骨された事を知り、今さらながら、深く感じるのである。



ストーパの傍らでは、二人の僧が静かに経を唱えている。

ストーパに、お釈迦様のお骨が有る、無しに関わらず、
アシタ仙人が予言した、偉大な仏の教は、今も伝えられている。

私は、彼らの視界に入り、邪魔にならぬよう、遠巻きに通り過ぎ
バスの待つ場所へと、急ぎ戻って行った。

インド仏跡巡礼⑪へ、続く