インド仏跡巡礼⑯ 釈尊(ブッダ)最後の説法地跡 | 創業280年★京都の石屋イシモの伝言

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涅槃堂の白い門から外へ出て、バスが停車している通り沿いに、
南へ100m程歩くと、釈尊(ブッダ)最後の説法地跡」へ着く。

説法地跡には、低い基壇の中を四角に区切った、僧院跡が並んで
いたが、いまだに晴れない濃い霧と、昨日の予定が遅れての見学
の為に、ゆっくり見る間もなく、横目に長しつつ足早に奥へと進んだ。



しばらく行くと、小さなコンクリート製の祠堂(しどう)が見えてきた。
僧院跡と、どんな関係があるかが不明で、意外な出現に驚く。

お堂の中には、大きな黒大理石を肉彫りした仏像が座っている。



仏像は足を結跏趺坐で組み、手を降魔成道・触地印に結んでいる。
目は半眼で口元は微かに笑みを浮かべ、瞑想の深さが感じられる。

 

黒い石に細かな彫刻を施した光背に、金色の像が浮き出ている。

私は、ボンヤリとした、疑問を抱きながら、石仏を見つめていた。

                  

今、私がいる場所は、釈尊(ブッダ)最後の説法地跡だと云う。

ならば説法の内容は、釈尊の入滅間際で、尊師を失う事を悲しむ、
修行僧たちに向けて、釈尊が伝えた‥

「諸々の事象は過ぎ去るもの。怠る事なく修行を完成させなさい」

と、云う言葉が、“最後の教え”だったと思うが‥

その教えの根底には、この世は
“諸行無常、生者必滅(しょうじゃひつめつ)”と云う、
理(ことわり)があって、平たく言えば、

「どないなモンでも常に変化して、元の形を留めるなんてムリムリ」
「生とるもんは、いつか必ず滅する。ちゅのが道理でっせ」

「ワテも例外な~し。せやし、そない嘆かんと、修行おキバリやす」

と、説かれたようだが(平たすぎかな^^)、でも、この“最後の教え”は‥
釈尊(ブッダ)が臥す、沙羅双樹の間で、話されたのではないかいな?

わざわざ、お亡くなりになる間際に、100m以上離れた場所に移動し、
最後の説法をされ、また100m以上戻って、ご入滅されるかいな?

と、要らんチャチャが、ボンヤリとした、ドタマをよぎるのである。

それと、もう一つ。

右手を下げた降魔成道・触地印の仏像の姿は、釈尊が若かりし頃、
悟りを開きブッダとなる前に、色々な誘惑を仕掛け、修行の邪魔を
する悪魔(マーラ)を追い払った時の、キメポーズではないかいな?



であれば、此処、入滅の場所の傍に安置されるのは、
正に、“場違い”ではない、だろうか? どないなってん?
実際、このキメポーズは、ブッダガヤ大塔の石仏で見られるし‥

と、要らんチャチャが、ボンヤリとした、ドタマをよぎるのである。

                    ◆

もとより浅学菲才の身(常套句やね^^)、ドロナワの知識で参加の上、
ガイドさんの説明をボーっと聞いている、自分が悪いのだが‥

気になり、日本に戻って調べたが、最初に抱いた“最後の教え”
場所については、あまり納得がいく、説明書きは無かった。

だが、仏像については、11世紀のパーラ王朝時代の作品で、地元の
信者さんからの寄進だと云う事が分った。

パーラ王朝は仏教を庇護した王朝なので、その時代に、ブッダ悟り
の瞬間の仏像が作られるのは、理解できるが、やはりこの場所に
置かれるのは“場違い”の気もするが。マァ、そんな些末な事は

釈尊(ブッダ)の教えに、帰依される方には、どうでも良い事ですネ。



かくして、ボンヤリドタマの凡夫を乗せながら、バスはガタゴトと

釈尊を荼毘した、ラーマパール・ストゥーパへと向かうのである。



インド仏跡巡礼⑰へ、続く