インド仏跡巡礼⑮クシナガル「涅槃堂」(ねはんどう) | 創業280年★京都の石屋イシモの伝言

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インド、二日目。釈尊(ブッダ)入滅の地「クシナガル」の朝である

朝6時半、ホテル出発。昨日、予定していたのに、行けなかった、
涅槃堂とラマバール最後の説法地跡へと向う。

ホテルのすぐ近くで、バスは停車。
“目覚めが悪い” 身体の背をグッと伸ばし、バスのステップを降りる。

濃霧である。 涅槃堂に続く白い門を抜けて参道を行くと、
白く、濃い霧の中で、高い椰子の木のシルエットが迎えてくれた。



さらに奥を臨むと、手前に僧院の跡を広げ、背景に白い涅槃堂が、
濃い乳白の海に浮かんでいる。 幻想的な、美しい眺めである。



昨日、時間が遅れ、予定を変更したお陰か、仏様の思し召しか。
“インド時間” も悪くない、と、無邪気に思う。後の事も知らずに‥

涅槃堂の階段の上で、裸足になり、お堂の中へと続いた

               

釈尊(ブッダ)は、八十歳で、涅槃(ねはん)に入られている。
此処、入滅の地「クシナガル」で。

この年齢、紀元前のインドでは、超長寿なのではないだろうか?
確かに釈尊は、若い時に、超人的修行をされた方ではあるが‥

猛暑による熱波やモンスーンによる大洪水など、インドの大自然
の脅威だけでなく、戦争や飢饉、疫病の発生などの危機を超え、

さらに教えを伝える為、険しい山々を登り、深い谷や森を抜け、
大河を渡り、病も克服されて、歩き続け、重ねられた年齢である。

驚愕の精神と生命力を持った、偉大なスーパーシニアだ。さすがに、
ブッダ(目覚めた人)と成る方は、凡夫とは根本的に違うのである^^

                  ◆

釈尊は八十歳を迎え、晩年に多くの説法をされた霊鷲山から離れ、
故郷に向け最後の旅に、アーナンダと数人の修行僧を連れて出る。

釈尊(ブッダ)が、数か月後に来る、自分の死を予告しての旅である。



ガンジス河を渡り、ヴァイシャリーの町を過ぎ、途中、激しい雨季に
入ッた為、移動を中断し、定住(雨安居)して布教を行う。

此処で釈尊は、死ぬほどの腹痛に見舞われるが、回復する。

この時、釈尊が死ぬかも知れない事に、うろたえるアーナンダへ、
釈尊より、伝えられたのが「自燈明 法燈明」の教えである。

衰えを見せながらも釈尊の旅は続くが、鍛冶屋のチュンダが持つ
マンゴ園で、施しに出されたキノコ料理にあたり、死の床に臥す。

二本の沙羅双樹の間に床を敷き、頭を北に向け、右脇を下にして、
釈尊は横になり、自分の死後について、アーナンダに指示をする。
(北枕は、両親のいた方角に足を向けない、孝行心からとも‥)

そして夜半、満月の光が、降りそそぐ、沙羅双樹の下で‥
釈尊(ブッダ)は、静かに、偉大なる生涯を閉じた。

                  ◆

と、云う事で、その釈尊(ブッダ)の「涅槃の像」が、目の前にある。
全長が6.1Mもある、とても大きな金色した像である。足もデカイ。



1876年にイギリスの考古学者、アレクサンダー・カンニンガムに
よって、此処の近くに流れるヒラニアヴァッテー河の河床で発見
されたもので、五世紀位に作られたと推定されている。

もともとは赤砂岩で作られた像だが、近年、ビルマの仏教徒により
金色に塗られてしまったとの事である。

釈尊の死を、多くの弟子や動物が、周りで嘆き悲しむ「涅槃図」を
京都のお寺や博物館で、見てきた私としては、部屋の真中に一体
だけ、どーんと、涅槃仏がある事に、少しだけ違和感を持ったが‥

気づいたら、自分達、見学者が釈尊の周りで、嘆き悲しむ弟子達
の一人となった、「立体涅槃図」が、構成されているようでもある。

初めは撮影禁止と思っていたが、他の外国人観光客が撮影を始め
ても、注意を受ける事もなかったので、恐る恐る、撮影をした。



が、慌てた為、AFスイッチがオフなのに気づかなく、ピンボケ気味。

どうも、カメラの “目覚めが悪い” のは、この凡夫に似たようである。


インド仏跡巡礼⑯へ、続く