インド仏跡巡礼(25)ラージギル/王の因果①竹林精舎 | 創業280年★京都の石屋イシモの伝言

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霊鷲山から西へ走り、さらに北へ上ると「竹林精舎」へ着く

竹林精舎は、マガタ国のビンビサーラ王が、釈尊(ブッダ)の在家
信者となって建立した、世界初の仏教寺院である。

霊鷲山から竹林精舎までは、車で10分程の距離だが、途中には、
同じ、ビンビサーラ王が晩年、息子のアジャータシャトル王に
幽閉され餓死した,牢獄の跡地がある。

牢獄跡地はマガタ国の首都・王舎城跡(ラージギル)の中心にあり、
城外東の霊鷲山、北の竹林精舎と結べば、ほぼ直角で三角となる。

この狭いエリアに、仏教に帰依し、仏教の発展に貢献した、国王
ビンビサーラの仏縁とも云える、二つの因果な物語が残されている。

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仏教のおこった紀元前5世紀頃の北インドは、幾つかもの国が対立
していたが、中でもマガタ国は、コサーラ国と並ぶ、強国であった。

そして王舎城(ラージギル)は、そのマガタ国の首都として栄えた。

此処はアーリア系住民の新天地であり、伝統的バラモン教の身分
制度による習慣や、権威づけが比較的に少なかったようである。

古代インドで長く続いた、バラモンの祭祀や呪文による、階級的支配
から、力で台頭してきた王や武士による武力支配へと移行する時代。

同時に、貨幣経済の発展により商工業者が富を生み、自由で活気に
溢れた,文化的な都市国家=王舎城(ラージギル)が造られていった。

そんな、先進性を求めるうねりの中で、身分も性の差別もなく平等に
“生き方の本質を唱えた”仏教が、人々に受入れられ、多くの支持者
(仏教徒や信者)がつくりだされていった、のかも知れない‥

 

マガタ国のビンビサーラ王は、釈尊(ブッダ)と同じ歳である。

若い頃に、マガタ国を訪れた釈尊を偶然見かけた王は、洞窟で修行
中の釈尊を尋ね、会話をかわすうちに熱狂的なファンとなる。

王は、国を半分譲ってもいいから、傍で教えを説き自分を導いて
欲しいと申し出るが、釈尊(覚醒前の名は、シッダルータ)は、

まだ修行中の身と断る。だが将来、悟りを開いた時は、必ず教えを
伝えに王の元へ戻ると、釈尊(シッダルータ)は約束をする。

そして、悟りを開いた釈尊(ブッダ)は、1000人を超す弟子を引き連れ、
約束通りにマガタ国を訪れ、ビンビサーラ王も約束通りに、帰依する。

ビンビサーラ王が、釈尊(ブッダ)と弟子達を歓迎する宴で、寄進した、
竹林精舎と、王が登山道を整備した霊鷲山は、釈尊(ブッダ)の活動
拠点となり、この地から教えは各地に広まり、教団化も図られた。

  
 
竹林精舎はビンビサーラ王が寄進した竹林園に、カランダ長者が精舎
を建立し、雨季は此処に、修行者達が定住して、活動(雨安吾)した。

長い雨季は、河が氾濫して移動が困難で、毒蛇の害も多いからだ。

“精舎”は修行者の舎宅の事で、立派な寺院建築の意味ではない。

現在、復元された竹林精舎も、掘起された四角いカランダ池を中心
に、竹林公園のようであり、大伽藍の跡があるわけではない。

竹林精舎は、平家物語の冒頭の言葉で有名な祇園精舎に比べ
あまり知られてないが、竹林精舎は南方伝導の要地として、
祇園精舎は、北方伝導の要地として、使われていたようだ。

竹林精舎も含め、諸行無常の響きは広く、伝えられていたのである。

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ビンビサーラ王が、仏教の発展に果たした役割は、限りなく大きい。

だが若い頃に、二人が出会い、互いに約束をしたと云う「原因」が
あったからこそ、仏教の礎が築かれる、「結果」が生まれた。

まるで「因果の法則」を地で行くような、釈尊(ブッダ)と王の話である。

だが、そんなビンビサーラ王の晩年は、酷く、悲しい。そして‥

釈尊(ブッダ)と王にまつわる、もう一つの因果な物語が残されている。

  
 

インド仏跡巡礼(26)へ、続く