サルナート遺跡公園は、緑が豊かな美しい場所である。
一万六千坪の広い公園の周囲には高木が茂り、地面は芝が敷かれ、
掃除の行き届いた園内には、数多くの遺跡群が遺されている。
サルナートは、釈尊(ブッダ)が五人の修行僧に初めて教えを説いた
“初転法輪の地”であり、仏教の教団化が始まった場所でもある。
その後は、仏教の教育センターとして長い歴史を刻み、幾度も
他民族の強奪や破壊にあったが、その都度、復興をとげている。
だが最後は、1206年にデリーでイスラム王朝を開いた奴隷出身の
アイバック将軍の軍団により、廃墟とされた。
サルナートの歴史は、仏教盛衰の歴史。故に遺跡も多いのだろう。
公園内には二つの塔(ダメーク大塔、ダルマラージカ塔跡)を初め、
奉献ストーパ群、アショカ王の石柱があり、考古博物館もある。
博物館では、紀元前三世紀のアショカ王の石柱に飾られた四匹獅子
像や、5世紀グプタ王朝時代の名作である初転法輪像が観られる。
グプタ様式の石仏は柔らかく肉感的、かつ気品と優美さを感じるが、
此処では、そんな美しい、仏陀や神々の像が多数、保存されている。
さらにスリランカ寺院と呼ばれる建物の内壁には、釈尊の生涯が、
日本画家の野生司香雪画伯によって描かれていて、見ごたえがある
遺跡公園だ。できれば帰り際でなく、ゆっくり訪れたい場所である。
◆◆◆
私たちは、短く芝の刈られた公園内を歩き、初めに煉瓦造りの奉献
ストーパ群を眺めながら、奥で待つ、釈尊(仏陀)が初めて法を説いた
場所と云われる、ダルマラージカ塔跡へと、歩みを進めて行った。
綺麗に区画された奉献ストーパ群では、低い遺跡が多く見られたが、
さすが“初転法輪の地”だけに、修行者や信者達のお参りが多い。
しばらく行くと、大きめの遺跡の前に30人程の人が集まり、熱心に
経を唱えているのが見えた。
前列には茶色の僧衣を着た人々が座り、少し間を開けた後ろに、
白装束の一団が深く頭を垂れて並んでいる。
熱く、陽に焼けた、煉瓦に染みいるような、読経が続いていた。
ダルマラージカ塔は、3世紀にアショカ王が初転法輪の地である事を
記念し建てたが、今は塔は無く、低い円形の基礎だけが残っている。
過去、この塔は何度も他民族の侵入で破壊されてきたが、今の姿に
なったのは意外にも1794年、隣のベナレスに市場を建設した時だ。
塔に残った煉瓦や石材等の資材が、解体され再利用された為である。
仏教の聖地サルナートで初めて教えを開いた、記念建築の資材が、
ヒンドゥー教の聖地ベナレスの市場を開く為に、使われている…。
皮肉で残酷な、時の流の悪戯である。とは言え、釈尊が修行者達に
初めて法を説いた時も、此処には何も無かったはずだ。
多分、森の開けた所か樹の下で、釈尊と五人の修行者は車座(円)に
なって、説法と云うより、話合いがされていたのではないだろうか。
釈尊は、上から目線で説教をする人ではなく、彼らも一緒に苦行した
仲間だし、まだ師弟関係もないので、きっと車座で話をしたと思う。
夜は満天の星の下で眠り、朝は小鳥のさえずりに起き、話は続く。
◆
釈尊の説教は良く、対機説法とか、応病与薬と云うが、話す相手の
立場や理解度に合わせて、分り易く法が説かれたようだが、
しかし此処、サルナートで、釈尊(仏陀)が五人の修行者と再会し、
初めて法を説いた時は、いささか勝手が違うと思う。
何故なら修行者達は、釈尊が苦行から逃げ、乳粥を食べた堕落した
人間だと決めつけて、聞く耳など持たなかったからだ。
確かに彼らは、傍へ近づく釈尊のオーラに圧倒され、反射的に歓迎の
意を表してしまったが、心の中ではまだ、釈尊を認めた訳ではない。
いったい、釈尊が五人の修行者に説いた教えは、何だったのだろう?
何で「苦行、命」の彼らが、釈尊の教えを信じ、変ったのだろうか?
何で、釈尊の教えは彼らに気づきを与え、一人ずつ悟りを開かせ、
仏教の教団化へと突き動かせたのだろう? その釈尊の教えとは?
何でかな?、ナンデカナ♪、と、そんな凡夫に応えるように、
釈尊(ブッダ)、かく語りけり。 と、続く、のである。
インド仏跡巡礼(38)へ、続く