3月20日、國學院大學を無事卒業しました!
そして神職資格も頂きました。

コロナ禍で始まった大学生活…
誰にも聞けず不安だったぶん、2年から通えるようになり、対面で授業を聞けることや
友達同士で確認できる喜びを再確認しました。





私にとっては二度目となる卒業式。

前は美大だったので、作品を作る【卒業製作】だったから、ゼミの中で発表を批評しあって卒論を書いたのは初めての経験。
3年時編入もできたけど、やはり日本文化や神道の歴史を一から学びたかったため、四年間の大学生活を選択しました。
結果、素晴らしい先生方や実習体験、本当に知りたかった学問にも出逢えて、4年間を選択して本当によかった。




私たちはどこから来て、どこへ行くのか。

誰もが一度は考える、普遍的な問い。


生まれた国の風土や、
古来から続く文化の中には
古代人たちの思想が表現されている。
「サムシンググレイト」と呼ばれるものについても。

4年間、日本をはじめ様々な世界の国々の信仰や宗教文化を専門的に研究している講師陣から学びました。

偶像崇拝を禁ずる宗教では、神は目に見えない。形あるものを崇拝すると、心は目に見えるものに縛られてしまうと考えられています。

日本の神も実体はもたない。
が、逆に見えるもの全てに見えない神を見い出し仏教とも自然に習合し、それを各地の生活のなかでお祭りしてきたのが、日本の文化なのだと感じました。

私たちが呼吸している空気も
全てを育む太陽も
普段は意識しない。

測定できないほど偏在しているもの。
大きすぎて認識できないもの。
それは、私達を包んでいる。

見える、けど、全てじゃない。
無量大数は測定できない。
「これ」と認識できない。
ものすごい沢山の「ある」は
認識できなければ「ない」と同じ。

「無限」を形にすることはできないから、
その時々に立ち現れる全体の力の一部分に名がついて呼称されるようになったのが
「八百万の神々」なのかもしれません。

そう考えると日本の神様は
偶像であって偶像ではない。
「全体」「八百万」の認識のなかで、様々な側面の神様を、それぞれの土地でお祀りしいる。

時には荒れ狂って命も奪うけれど
春には草木が芽吹き、生命の営みを運んでくる。そのどこからともなくやってくる人智を超えた力に人々は畏怖し、恵みに感謝してきた。

仏教も儒教も対立することなく受け入れた古代日本人。「全体」をとらえて受け入れる感性は、これからの多様性の時代にはとても重要な意識。

國學院大學で神道や仏教、民俗学を学び、日本の古い文化の形を知ることで、現代では失われてしまった風習や今も残る儀式、そしてこれからの精神のあり方を考えることができるようになりました。



私は、大学院に進みます。



4年間、神道・仏教・世界の宗教文化を学んだ先に見つけた、古代日本人の習俗や文化。

仏教が入る前から存在していたかもしれない民間の信仰。それぞれの土地に残る古神道とも言えるかもしれない「民俗学」。


日本人の精神性の源泉を探していきたいと思います。


学部変更をして大学院受験をしたので

「受かるのは難しいイバラの道」と言われましたが、何とか合格できました。


4月からは大学院生!

がんばります🙆✨