乃木坂46は2011年8月に結成され、2012年2月22日に「ぐるぐるカーテン」でデビューしました。
私が乃木坂に行くようになったのは、SDN48ヲタク時代の友人から、「乃木坂っていう新しいグループが秋元さんプロデュースでソニーから始まる。可愛い子がいるらしいし、お見立て会に行かない?」という誘いからでした。私は正直SDN解散のこともあるし、AKBが絶頂期を迎える中で、厳しいなと思いましたし、さほど興味もなく新木場で行われたお見立て会に行きました。会場にはAKB流れのヲタクはもちろん、全く新しいグループということで始まりたい新規ヲタク候補も沢山来場し、2回あったセッションはどちらも3000人位のお客で会場は一杯だったと思います。
そして、お見立て会の最後には、暫定推しメンを決めた後に、個別に握手に行けるという企画でした。私の暫定推しは高山一美さんでしたが、握手では一番人気になっている状況でしたので、次に気になっていた橋本奈々未さんの握手レーンに並びました。ポイントは文学少女であること、ややおとなしそうでしたが芯の強さと、頭の良さを感じたからです。
握手では、好きだと言ってた本の話を少ししました。
その後MIXIというSNSで橋本奈々未さんと、若月佑美さん(友人が管理人になったので)を登録しておきました。現在の欅坂のようにあっという間に、全員のMIXIコミュニティが当時できたと思います。
その後、11月のZEPP東京で行われたイベントの後に、MIXIコミュニティの人たち4人と会い、2月の生誕祭の事を話ました。私以外の3人は受験生だったり、就活生だったりということで、自然とまとめ役は私がやることになりました。橋本奈々未生誕委員会のMIXIアカウントは2011年12月1日に始まりました。
その後生誕委員も約20名位にはなり、ソニープラザのイベントではスラムダンク風のTシャツを作るとか、アルバムを絵本風に(文学少女なので。。。)しようとかかなり具体的な話をしました。
そして、いよいよ乃木坂46デビュー曲「ぐるぐるカーテン」が2012年2月22日に発売になることが決まりました。当時の乃木坂運営は生誕企画書のようなものを出しても全く返事をくれることはなく、仕方なく発売当日に新潟で行われるミニ握手会でゲリラ的に生誕イベントを実行することになり、7名の生誕委員と新潟のイオンへ向かいました。
今も着ている赤いTシャツとお誕日おめでとう、と書いたうちわを用意し、ブリザーブドフラワーにデコレーションをしたプレゼントと生誕アルバムを連番しながら渡しました。
そして、忘れもしない、その後の私のヲタク人生を左右する会話が最後の10ループ目に来ました。その当時の奈々未さんはやややる気は前面に出てこないタイプ。今から思うと、まだ本当にアイドルを職業としてやる覚悟ができていないのではないか、と思えるような印象を個人的に感じていました。しかし、人の顔と名前を覚える速さや、会話の多彩さは当時から際立っていて、この人が本気になれば凄いアイドルになるかもなと予感をさせる雰囲気を持っていました。
「橋本奈々未の本気を見せてくれ!」と言うと、「いつでも本気だから!!!」と強い口調で返してきました。その表情は今も忘れられないし、私が橋本奈々未ガチヲタクになって推して行こうと決めた瞬間でした。
AKBの公式ライバルとして超えていくと言う当時は途方もない目標も、こういう人が本気を出したらもしかしたら、と感じた瞬間でもありました…
その後の活躍は皆さんがご存知の通りです。
握手券はコンスタントに100枚、一番多い時には200枚くらい奈々未さん分を取っていたと思います。プラス全国握手会になりますので、初期には接触する時間も長く取れていたなと思います。
生誕祭も2013年からは運営の承認の上、握手会場で行われるようになりました。
生誕委員会も乃木坂全ての横の連絡網を作ったり、委員会で面白いレーン装飾や生誕企画を競うようになり、乃木坂独自のスタイルが発展していきました。
私の橋本奈々未さん物語があるとすると、大まかに2011~13年、14年~17年の2つの時期に分けられると思います。
前半はひたすらに推し続ければ良かった時代です。
後半は体調面や、仕事の内容、グループ状況の変化、将来への模索などが入り混じり、私も握手をしながら変化を感じていた時代かなと思います。
ファンの立場なので、もちろん深く理解できるものではないのですが、時折見せる表情や言葉の中に変化と、何か戸惑いのようなものを感じていました。
私が乃木坂で一番好きなイベントは圧倒的にプリンシパルでした。他のアイドルにはない独自性があったし、過酷なガチオーディション方式の毎日の公演はメンバーもファンも緊張感がMAXになり、筋書きのないドラマをみることができました。
奈々未さんにも、3回のプリンシパルではその変化を一番感じたかも知れません。
第1回プリンシパルは、奈々未さんにとって最も重要な成長の時期だったと思います。
第2回目は成長から、スタイルの確立をした時期だったかなと思います。
そして、第3回では、体調がすぐれず、メンタル的にも不安定な時期だったかなと思います。その年の神宮ライブにも出られずに、悔しい思いと、将来へ不安を感じていた時期ではないかなとも想像していました。この頃「卒業」があるかもな、とも思っていました。
しかし、乃木坂は2015年に念願の紅白に出場し、飛躍の時期を迎えます。
一方で公式ライバルのAKBは初期メンバーがどんどん抜けてきた時期でもありました。
2015年~2016年は乃木坂にとって素晴らしい飛躍の一年になりました。
しかし、その頃奈々未さんはどんなことを考えていたのでしょうか。。。
握手券も取りにくくなり、私も話す機会は激減していました。
そんな中「悲しみの忘れ方」という映画が公開されました。
乃木坂のドキュメンタリー映画であり、メンバーによってはかなり掘り下げて描かれている作品でした。
その中に登場する奈々未さんは、内容そのものよりも、強調されたキャラ設定的な部分に非常に違和感を感じました。本人はどう思ったのかな、と少し不安になりました。
思えば、この頃は初期から比べると握手会で話すことも表面的は話しが増えていて、私自身も推し方や接し方が変わったなと思います。それは、良い悪いではなく、そういう時期になったのかなと言う感じなのです。
そして、その後も奈々未さんのグループ内でのキャラ設定は、私には違和感を感じることが多くなり、その矛先は運営にも向いていました。
誤解してほしくないのですが、このブログは奈々未さんが何故引退するのかを検証するものでは断じてありません。
いちファンが見てきたこと、感じてきたことを、ある意味個人の偏った見方から書いているのかも知れません。
沢山の握手をしてきても、いちファンが理解できることはとても限られています。
ほとんど妄想の世界です。
しかし、それがヲタク活動と呼ばれる趣味の実態でもあると思います。
そして、2016年10月19日運命のオールナイトニッポン放送の日がやってきました。
卒業ではなく、引退する。
その潔さに世間は驚き、絶頂期に引退する、ということが今もなお惜しまれています。
しかし、私を含めたファンは、奈々未さんらしいな、とも感じたはずです。
そのらしさ、とは何か、、、
初期の時期から変わらない人間としての、コアな部分なのかも知れません。
ぶれない何かを持っている人。
人に流されない強さと、用心深さを持っている人。
自分を客観視しながら、世の中の流れを見ている人。
私の感じる、らしさとはそんな言葉になります。
昨日2017年2月5日、パシフィコ横浜の握手会で、6回目であり最後の生誕祭と、卒業セレモニーを代表者として200人の仲間たちとしっかりと行ってきました。
奈々未さんに涙はありませんでした。
私もセレモニーでは涙は出ませんでした。(その後は内緒で。。。)
スピーチで語られた内容も実に奈々未さんらしいものでした。
そして、とても清々しいものでした。
2月20日には卒業コンサートがあります。
アイドル橋本奈々未さんの最後を見届けることは、私にとって、恐らく私自身のこれからの生き方を考えるヒントをもらえる気がします。私自身も生活や生き方が新しい何かに向かわなければいけないのだと感じている時期です。そんなことを遠回しに教えてくれる人だったのかなと感謝しています。
橋本奈々未さんのファンで良かった。
今は心からそう思えます。
奈々未さんの5年半は乃木坂の成長・躍進そのものでした。
ななみん
ありがとう。