日本中央碑と多賀城碑 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

日本中央碑を学者が調査を行うが、本物であるとは結論が出ていない。これは、袖中抄と言う古文書の「つぼのいしぶみ」に関する記述とは一致するが、「日本中央」という理解しがたい文面である上に、似たような多賀城碑が存在していること、また坂上田村麻呂が現地に到達した伝承がないことがある。さらに碑に書かれている字が上手で無いことも、疑いの一因となっている。

青森県の日本中央碑は志摩の伊雑宮から鳥海山、大湯環状列石を貫く聖なるラインの北東端にあり、「顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。」の文面に一致する。

多賀城碑も二荒山神社や高天原山を通る聖なるラインと、大湯環状列石や小牧野遺跡を通る聖なるラインの交点となって、日本中央碑とは別の正しい石碑であった。多賀城碑の碑文は石碑のある場所の位置を拠点からのらの距離で表したもので、多賀城の設置の記念碑と考えられる。

日本海の向こうの靺鞨国(朝鮮半島の北にあり、現朝鮮民族の故郷の国)までの距離が書いてあり、高度な測量技術をうかがわせる。すなわち、天文学の高度な発達により、地球が丸いことなどの知識が既にあったことの証明である。

{20B8C1E2-9B00-4CDE-A9E5-348A4D7DBA72}

・多賀城碑(青丸)→二荒山神社→高天原山
・多賀城碑(青丸)→大湯環状列石(緑丸)→小牧野遺跡(白丸)
・日本中央の碑(黄丸)→大湯の環状列石(緑丸)→鳥海山(黒丸)


参考

① 多賀城碑(参考)、、、日本中央碑(つぼのいしぶみ)と混同されてもいる。

平成10年6月30日、国の重要文化財に指定された多賀城碑は、市北西部の多賀城跡の一角にあり、江戸の昔から創建年代や後年の偽作か否かについて論争されてきたが、近年の発掘調査の結果などから、現在は碑文の通り天平宝字6年(762年)の建立と判断されている。

碑の高さは196cmあり、最大幅が92cm、最も出っ張りの大きい所で70cmの厚みがある。今は、明治8年に建てられた覆堂に納まり雨露を凌いでいるが、芭蕉が訪ねた元禄2年(1689年)当時は野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠すほどの苔で覆われていたことが「おくのほそ道」から知られる。

つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。(おくのほそ道)

{77CFAEF0-B015-4C6F-9B41-CE34777131F0}

{65103F8A-4784-45D4-B4A5-74C9DE1D1D23}

{B01265C0-C3AB-437C-A8B0-D526CB7EFDC4}

{614F9148-C571-4F6A-9F3F-9E395AD898FB}

{F2E25325-EECE-4F7E-B404-1C0356C4BDAC}


② 大湯環状列石、秋田県鹿角市十和田大湯万座

{A827C64D-92FD-41A3-9BFD-753014A6FF9C}

{52BF1C28-F54D-4F5E-8F2B-14AB29381C0E}

{FF3D181C-A1D8-4314-BA2B-85B388B690DF}

{FC0EBA26-0C03-4B51-96F9-685A07131597}

大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき、wik iより)

秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。

この遺跡は、山岳丘陵の末端にのびる舌状台地の先端部に造られており、河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が外帯と内帯の二重の同心円状(環状)に配置されている配石遺構である。その外輪と内輪の中間帯には、一本の立石を中心に細長い石を放射状に並べ、その外側を川原石で三重四重に囲んでいる。その形から「日時計」といわれており、万座と野中の両方の遺跡にある。

大きい方の万座遺跡の環状直径は46メートルもあり現在発見されている中で日本で最大のストーンサークルである。組石は大きいほうの万座では48基、野中堂のほうは44基ある。中央の立石は大湯の東方約7 - 8キロメートルにある安久谷(あくや)川から運んだと推定されており、労働力の集中が見られる。

大湯環状列石には日時計状組石があり、この日時計中心部から環状列石中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。このような組石は北秋田市伊勢堂岱遺跡にもある。

大湯環状列石の北東には黒又山があり、大湯環状列石からはきれいな三角形に見える。黒又山にも何らかの人工的配石遺構などがあるのではないかとする推測もあり、大湯環状列石との関連の可能性が一部より指摘されている。


③ 日本中央の碑、青森県東北町

{569F9476-F9A6-401A-8A56-F7D225FCBE49}

{D0D66BA9-CFF4-4E5E-A358-BE12FFD49158}

{39126357-F304-4F01-AA62-9C5C5AFBE9FA}

{BB977673-85B5-43B9-B410-8F5D45E32144}

日本中央の碑(にほんちゅうおうのいしぶみ、wikiより)

青森県東北町にある石碑のことである。

1949年(昭和24年)6月21日、当時甲地村であった石文集落近くの赤川上流で千曳在住の川村種吉により発見された、高さ1.5mほどの自然石に「日本中央」と刻まれた碑である。

発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物のつぼのいしぶみであるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。これは、袖中抄の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、坂上田村麻呂が現地に到達した伝承がないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。

「日本中央」という文面の問題は、喜田貞吉は、千島列島を考慮することで問題は解決するとした。一方、日本という名前を蝦夷の土地に使っていた例もあり、蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説もある。津軽の安藤氏も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある(この場合、よみは『ひのもと』となる)。

また、坂上田村麻呂はこの地に到達していないが、文屋綿麻呂はこの地に到達している。


・袖中抄(参考)

顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。(それをつぼといふ也。) 私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。(袖中抄)

[要旨] 陸奥の奥地、日本の東の果てに「つぼのいしぶみ」というものがあって、碑面に、坂上田村麻呂が弓のはず(両端の弦をかけるところ)で彫った「日本中央」の文字が書かれ、それを石文(いしぶみ)という。藤原信家の侍従によれば、石の長さは4、5丈(約12~15m)ほどで、彫り付けられて窪んだところを「つぼ」という。みちの国は東の果てだが、えぞに島々あること考えれば日本の中央といってもいい。


④ 小牧野遺跡(wik iより)

{6759F44A-43A6-43EA-8E8E-116A38773FD5}

縄文時代後期前半の遺跡。所在地は青森市野沢字小牧野。三内丸山遺跡の南に位置する。三内丸山遺跡でも同様の遺構が確認されているため、何らかの関連を示唆する声もある。

環状列石に関して、直径2.5mの中央帯、直径29mの内帯、直径35.5mの外帯の三重の輪のほか、さらに外側に、一部四重となる弧状列石や、直線状列石、直径4mの環状列石などがあり、直径は55mにもおよぶ。

竪穴式住居跡、湧水遺構、当時の墓、道路状遺構などを発掘した。


⑤ 縄文時代以前の日本の人口は東日本に分布し、東日本が宮下文書に言う富士高天原、すなわち日ノ本(ひのもと)であった(参考)。