ただ「知るためだけに」生きる | 木下英範のブログ

ただ「知るためだけに」生きる

何のために生きるのか。経済的に成功するため?幸せになるため?子孫を残すため?誰かのため?どれもあるだろう。しかしただ単に「知りたい」から生きる。それだけでいいのではないかと思う。


社会人になると勉強の大切さを痛感する。社会人学校はいつでも盛況である。そして社会人学生は現役の学生に比べて至極真面目だ。何のために勉強するのだろうか。もちろん仕事に役立てるため、自分自身の向上のためである。しかしそれが本当に仕事に役立つのか、自分の価値を向上させるのか、本当のところはわからない。多くの社会人大学の宣伝文句は「実践で役立つ」だ。そして受講者たちはそれが自分の仕事にどれだけ役に立つか知ろうとする。そこで取得できる資格にこだわる。


しかし、そこで学んだことが本当に実践で役に立つのか、資格が本当の意味で社会のためになるのか、そんなことはわからない。だから単に「知りたいから」で選んでよいのだ。仕事のために資格を取らなくちゃという勉強で本当に面白いだろうか。真の意味で身につくだろうか。


仕事とかなんの役に立つかとかそんなの関係なく、「知りたいから」勉強すればいいのだ。それがなんの役に立つかは後で決まることだ。往々にして発明とか発見とかいうものは、「何かを発明したいから勉強する」とか「発見したいから知識をつける」というのではなくて、全然関係ない知識が結びついて、ある時ふっと出てくるものだ。さらに、その発明なり発見が社会の役に立つようになるのはずっと後になってからというのが大半だ。


興味あるもの、面白いと思うことを縦横無尽に勉強していけばよい。知的好奇心に素直に従えばよい。たとえ勉強したことがなんの役に立たなくても、俺は知りたいことを知るのだ!と胸を張って生きていけばいい。


生きる意味を「幸せになるため」と定義するのも否定はしないが、幸せというのはどんなに環境が恵まれていようとも、コロッと不幸に転換したりする。幸福と不幸は振り子のように行ったり来たりするものだ。それならば「知るために生きる」としたほうがすっきりとする。


人間は時間を知識に転換して生きている。人生80年として、生まれた時点で70万800時間の可能性を持っている。生まれた時点での知識はゼロだ。生まれた瞬間からこの時間を消費して知識や経験に変えていく。この知識や経験こそがその人の価値になるのだ。そして知識というのは積み重ねだ。あるときコロッとなくしてしまうものではない。生きている限り積み重なっていくのだから心強いではないか。どんな経験をしたって、成功したって失敗したってそれは知識として積み重なる。


「知るために生きる」には他人の大切にする必要がある。だって他人はすべて先生なのだから。生まれたばかりの赤ちゃんにだって学べるところはたくさんある。


苦難にめげずに頑張っている人がいる。逆境の中にあって前に進もうとする人がいる。何度失敗しても立ち上がる人がいる。その原動力はどこにあるのだろう。それはきっと深いところでは、その先に何があるか知りたいから。人類がここまで来たのはただ「その向こうに何があるか知りたい」というたった一つの動機だったのではないか。そう思うと、生きる意味も、学ぶ動機も、「知りたいから」というたったこれだけの単純なものでいいんだと思う。ただ知りたいから生きて、生ある限りできる限り多くのことを知り続けて、そうして「自分は知りたかったことをこれだけ知ったぞ!」と満足して死んでいけたらそれでいいんだ。


いろんなものに目を向けよう!自分の興味を発掘していこう!好きなことに時間を忘れて没頭しよう!それがなんの役に立つかなんて考えなくていいさ。僕らの宇宙は複雑で深遠で興味深く、でも法則にのっとっていてちゃんと人間が理解できるようにできている。これってすごくありがたいことなんだよ。