海人 暮らしの古典61話 | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

2024年1月14日、実家に帰って浦江の八坂さん(素戔嗚神社)、
浦江の聖天さん(福島聖天)初参りをしてきました。
檀那寺の妙壽寺では「大般若祈祷会」に出て
お守りとお札と、福引きで夫婦箸を戴いて帰りました。
その妙壽寺の看板に「浦江のおいなりさん」があります。
写真図1 「浦江のおいなりさん」の看板

今回の「暮らしの古典」は、61話「海人」です。
地名「浦江」と絡めて考えてみることにします。
昨年2023年10月13日発行の
木村紀子『地名の原景 列島にひびく原始の声』平凡社新書を
昨秋、読みました。
著者の専攻は、言語文化論・意味論とあります。
構成は以下のとおりです。
 Ⅰ 日本列島の原景語 Ⅱ 国名以前の地名と国名の生いたち
 Ⅲ 先史を秘めた奇妙な当て字地名
今回、ボクにとって馴染のある大阪の地名を取り上げ、
「原景」を探索することにしました。
読んでいて、興味をそそるのは、「ヤマト政権の人々」や「海人」なる集団を
引き合いに出して古代文化の両様性を言語活動に見出さんとしているところです。
《Ⅰ 日本列島の原景語》から引きます。
◆記紀万葉と一括される初期文献の中では、海人は「アマ」と呼ばれ、
 ヤマト政権の人々にとって、敵対勢力ではなく、
 海で生活している異部族扱いのように見える。
 万葉集では、次のように、
 半ば海の景物のような興味で、物珍しく眺められている感じである。

テキストは萬葉集の巻第六の「難波宮作歌一首并短歌」の
短歌(1063番歌)など6首を引いてます。
◆有り通ふ難波の宮は海近み 
 漁童女等(ルビ:あまをとめら)が乗れる船見ゆ(1063 田辺福麻呂)

本文を『萬葉集 本文篇』(塙書房1963年)によって確かめます。
◆有通 難波乃宮者 海近見 漁童女等 乗船所レ見

テキストは「漁童女」を海人と訳し、「所レ見」を「見ゆ」と訓じています。
難波宮近くを航る海人の生業への
萬葉歌人からの好奇な眼差しをテキストは指摘しています。
同章《5 エ(江)とウラ(浦)》の記述にも海人が記述されます。
実家のある大阪市福島区鷺洲の古地名「浦江」を探るべく読みました。
◆・・・・エとは、海辺や川辺で、何らかの地勢的条件で波や流れが滞り、
 水が溜まった浅い水域のことで、
 蓮や菱等の水生植物なども茂った所のことだと見られる。

たしかに、かつての「浦江」の料亭の十八番は蓮料理でした。
引用文の一文飛ばして、引きます。
◆「江」とは、〽おし照るや 難波の小(ルビ:を)江*(小江)に 庵作り
 なまりて居る 葦がにを 王(ルビ:おほきみ)召すと 何せむに 吾を召すらめや・・・・ (万 3886「蟹に為りて痛みを述ぶる歌」)
 と、葦蟹などが、住みついている所でもある。
写真図2 カニのイメージ

昭和30年代、玉江橋の欄干からカニを釣って遊んだことがあります。
時と場所は小説宮本輝『泥の河』に近似します。
釣れたのは河川の砂礫中に穴居する川蟹やないかと思います。
ところが、「難波の小江」の*頭注には「草香江をさすであろう」とあり、
この「江」は生駒西麓に入り込んだ河内の地名のようです。
  *頭注:『萬葉集四』日本古典文学全集5、小学館、1975年⑯3886
ここまでは海人の記事は見えません。
「浦」や如何?

◆万葉歌人たちは、格別の興味を持って、
 その生態*(海人たちの日々の生業)を歌っており、
 たとえば、巻15の「物に属けて思ひを発す歌」(3627)という長い長歌では、
 「(難波の)三津の浜→敏馬(ルビ:みぬめ)(の浦)→淡路の島→明石の浦→家島→」と
 クルーズ船のように浦・島めぐりをし、最後に「玉の浦に舟を留めて、
 浜辺より浦磯を見つつ・・・・」というように、
 「物」とは、浦・島・浜・磯等における景物や人物の活動であった。
 神代の昔から続くという古代の「浦」とは、
 要するに「海人(ルビ:あま)の拠点(集落)」のこと、
 今の言葉で言うなら入り江や遠浅の砂浜沿いに広がる漁師町のことである。

古代の「浦」とは「海人(ルビ:あま)の拠点(集落)」のこととあります。
はたして「浦江」が漁師町であった時代があるのでしょうか?

*『神楽歌』の「難波方」に難波潟の光景が歌われています。
   *「神楽歌」:『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』
        (日本古典文学全集25、小学館、1976年
〽本/36 難波潟潮満ちくれば/海人衣/
 末/海人衣田蓑の島に/鶴立ちわたる

「海人衣」のルビは「あまごろも」、本文は「安万古呂毛」で
頭注は次のとおりです。
◆海辺の景を歌っているので、「海人衣」をあてたが、
 本来は「雨衣」で「蓑」を起こす枕詞である。

以前、『萬葉集』の「海人」の本文を検索したことがあります。
 ↓ここにアクセス
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12273711141.html
《折口信夫の想像した「田簔の島」の民(1)2017-05-11 16:03:21》
◆「海人」の用字は「安麻」でいずれも「雨」との違いはありません。
 このことからしますと「あまごろも」を一概に
 「雨衣」と解釈して「雨合羽」で済ませるのではなく、
 *折口のように「海女衣」「海人衣」と解釈することも可能なのです。
 *折口:『折口信夫全集』16、中央公論社、1996年
 「第二部 日本文学の戸籍 第二章 上代歌謡」
《[語句の吟味]○あまごろも》には、次の記述があります。
◆海女(ルビ:アマ)の着てゐる衣。それを、田簔を起す枕詞とした。
 海人は、もと海人部 (ルビ:アマベ)の民を言ひ、
 普通の旧日本種族と部族が違つてゐた。

「普通の旧日本種族と部族が違つてゐた」の記述は、
テキスト『地名の原景』の
「ヤマト政権の人々にとって、敵対勢力ではなく、
 海で生活している異部族扱い」に対応します。
次に「田簔の島」を見ましょう。
「田簔の島」は、後述しますように「浦江」も伝承地の一つです。
折口の説を挙げます。
 ↓ここにアクセス
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12274278357.html
《折口信夫の想像した「田簔の島」の民(3)2017-05-13 14:42:43》
◆《[語句の吟味]○田簔の島》の記述を引き続き小出ししながら考えます。
 ◇後世其跡を伝へる所もないではないが、所在は今明らかでない。
 微妙な表現で、折口には「田簔の島」を比定する
 固有名詞(地名)による所在説の提示は この先を読んでもありません」。

これでは埒が開きません。
 ↓ここにアクセス
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12274283946.html
《折口信夫の想像した「田簔の島」の民(4)2017-05-13 15:07:34》
◆片桐洋一は1998年『古今和歌集全評釈(下)』講談社に「あま衣」の語釈に
 「「田蓑」という物と語が当時あったかのかどうか、
 その例を知らない」としている。
 そうとなれば、「田に出る時に着る農夫の蓑」という
 モノの存在自体が怪しくなってきます。

テキスト『地名の原景』の《5 エ(江)とウラ(浦)》の記述の
「ウラ(浦)」を読む限り地名「浦江」が
「海人(ルビ:あま)の拠点(集落)」かとも思えましたが、
『神楽歌』の「海人衣田蓑の島」の
「田蓑の島」浦江説自体が危ういものでした。
 ↓ここにアクセス
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12224672853.html
《『五畿内志』の「宅美」の訓み(1)2016-12-01 16:08:22》に
「『五畿内志』「摂津志」(享保20(1735)年板行の
郷名の次の記述を挙げています。
◇宅美〈半角割注:已ニ廃シテ浦江大仁二村ニ存ス〉
の表記が見えるのは古蹟の項の「宅美」に次の記述があります。
◇宅美(ルビ:タミ)野ノ島〈半角割注:浦江大仁等ノ地即此 義詮卿住吉詣ノ記ニ見(ユ)〉

訓みは「タミノノシマ」であって、「タミノシマ」ではありません。
場所は「浦江大仁等ノ地」とあってこの書の「宅美郷」とほぼ重なります。
この箇所では「宅美」を「タクミ」でなく
不自然にも「タミ」と訓ませています。
この不自然な訓みは、約20年後の地図にも反映しています。
 ↓ここにアクセス
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12224891717.html
《書換『五畿内志』の「宅美」の訓み(2)2016-12-02 09:33:39》
◆「摂津国難波之図」:秋岡武次郎編著、1971年
          『日本古地図集成[4]』鹿島研究所出版会

この地図の奥付には、「宝暦三年癸申三月 森幸安著図」と記されていますが、
「宝暦三年癸申」は存在しません。
「宝暦三年」なら「癸申」でなく「癸酉」で1753年です。
何よりも「田蓑の島」浦江説が破綻を来すのは
森幸安作製の「摂津国難波之図」と
並河誠所『五畿内志』とは、いずれも「宅美」「宅実」を「タミ」と訓む
共通する表記が見られることです。
海人「アマ」なる「ヤマト政権の人々にとって、敵対勢力ではなく、
海で生活している異部族」の眼差しを挙げている『地名の原景』でありながら、
深堀すれば、如何わしくも思えてきます。
そうとなれば《Ⅲ 先史を秘めた奇妙な当て字地名》も気になります。
◆ところで、「葦原の中国(ルビ:なかつくに)」というのは、
 いわゆる天孫族が、この島(国)に降り立った時の、
 この国の、ヤマト以前の古名である。

「天孫族が、この島(国)に降り立った」は、
譬喩では済まない記述と思えます。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登