神功皇后は「依坐」(よりまし) 暮らしの古典 60話 | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

今週の「暮らしの古典」は
60話《神功皇后は「依坐」(よりまし)》です。
神功皇后の「かむがかり」も結びにさしかかりました。
神として祀られている「神功皇后」とは、いったい何方なのでしょう。


神に仕える人が神と仰がれる話は
《神農を祀る神農 暮らしの古典45話:2023-09-24 09:56:38》でしました。
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親分「神農さん」の襲名の時のほか、
12月13日の事始めに床の間に軸の神農像を祀り
供え物をするのでした。
それは露店商による神農像を祀る神農信仰でした。
拙著『水都大阪の民俗誌』和泉書院、2007年の
《29 商人と社寺》に詳述しています。

次に掲げる「神功皇后」の画像をご覧ください。
写真図 昭和10(1935)年に描かれた神功皇后
    「新羅を望み給ふ神功皇后」
    『神功皇后 少年大日本史 第四巻』建設社発行、1935年
    国立国会図書館デジタルコレクション


凜々しくも勇ましい姿に描かれています。
神格化された「お姿」です。
昭和10(1935)年当時の国家が、
この国の少年たちにあてがえた
歴史教育の一齣が見えてきます。

今回、『古事記』の神功皇后を考える切掛は、
「サニワ」という言葉でした。
2004年1月に石切劔箭神社参道の「金の鈴・銀の鈴」の
占い師の先生から聞いたのが最初でした。
「サニワ」を『広辞苑 第七版』 (C)2018 株式会社岩波書店で確かめました。
◆さ‐にわ【さ庭】 ‥ニハ (「さ」は神稲の意)
 ①斎(い)み清めた場所。神おろしを行う場所。古事記(中)「―に居て神の命を請ひき」
 ②神慮を審察する人。神命をうけたまわる人。神功紀「審神者(さにわ)にす」
 ③神楽で和琴(わごん)を弾く人。

ここで*テキスト『古事記』記事から「サニワ」に入ります。
 *テキスト『古事記』:荻原浅男・鴻巣隼雄『古事記 上代歌謡』
           1973年初版(日本古典文学全集1、小学館)
●故天皇坐二築紫之訶志比宮一*(かしひのみや)将レ撃二熊曽国一之時、
 天皇控二御琴一而、建内宿禰大臣居二於沙庭一請二神之命。
「天皇控二御琴一而、建内宿禰大臣居二於沙庭一請二神之命」とあります。

神降ろしの場「沙庭」(さには)にいるのは、御琴を弾く天皇と建内宿禰です。
これを*『記伝』に照らします。
 *『記伝』:本居宣長著・本居豊穎校訂
      「古事記伝 自神武天皇至仲哀天皇」三十
      『本居全集第2』1902年片野東四郎出版
◆沙庭(ルビ:サニハ)は神を降し請せ奉て、
 其御命(ルビ:ミコト)を請(ルビ:コ)ふ場(ルビ:ニハ)にて
 斎清(ルビ:イミサヤ)めたる由にて、
 清場(ルビ:サヤニハ)の切(ルビ:ツヾマ)りたる名なり、
 (作夜(ルビ:サヤ)も佐と切まる)、

「サニワ」は神降ろしの斎み清められた場所を指す言葉です。
ここでは「サヤニハ」が約まって「サニハ」となったと解釈しています。
『記伝』の続きを載せます。
◆*(日本)書紀(神功ノ巻)に、為二審神者一*(サニハトナス)とあるは、
 清場庭(ルビ:サニハ)に候(ルビ:サモラ)ふ人を云るなり、
 (されば此ノ審神者はサニハビト(右小丸点)と訓べきなれども、其意にて、
  其人をたゞに佐爾波(ルビ:サニハ)と云むも違はず、(以下略))、

場所を指す「サニハ」は「審神者」に派生します。
『広辞苑』には、
「②神慮を審察する人。神命をうけたまわる人」とあります。

次に挙げる『記伝』の続きは、
『古事記』記事「建内宿禰大臣居二於沙庭一」の「居」に注目しています。
◆居(ルビ:ヰテ)とは、たゞに居るのみを云には非ず、
 清庭(ルビ:サニハ)に居て神の命を請奉り、其ノ命を受賜はり、
 又推復(ルビ:オシカヘ)して問奉るべき事あれば問奉りなど
 凡て神に対(ルビ:ムカ)ひ奉て物するを云

神降ろしの場には、天皇、皇后、建内宿禰といますが、
この段で「神」との交流を指揮しているのは建内宿禰です。
テキスト『古事記』「孝元天皇」の頭注「建内宿禰」に次の記述があります。
◆景行朝から仁徳朝に至る歴朝に仕えた重臣で、また長寿の人であり、
 神功皇后の朝鮮半島進出の時には霊媒者となっている。

新羅進出時にあっての建内宿禰は、
神降ろしの霊媒者なのです。
前々回、《58話 かむがかり「帰神」》に
「神」と建内宿禰との丁々発止のやりとりを取り上げました。
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 https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12833439461.html
天皇は「神」からの「西方の国を服属させよう」とするメッセージに反発しました。
それゆえ「神」の怒りを買い、
「黄泉の国へ向かえ」と告げられました。
そこで調停に乗り出した建内宿禰の言葉に
天皇は気乗りしない態度をとったもので、
間もなく絶命しました。
このボクの解説に登場しないのは「皇后」です。
いうまでもなく神懸かった彼女は、
「神」に代わって「神」のメッセージを音声で発する役だったのです。

テキスト『古事記』の「神功皇后の神がかりと天皇の崩御」の頭注に
「この物語上の*(皇后の)影像は明らかに
巫女(ルビ:みこ)である」とあります。
また*『伝奇伝説事典』の「神功皇后」の項に次の記述があります。
 *伝奇伝説事典:『日本伝奇伝説大事典』1986年、角川書店、「神功皇后」
◆暗闇の中で神懸かりし神のことばを発する息長帯比売のそばには
 琴を弾く天皇と
 「沙庭」とよばれる神の託宣の仲介者建内宿禰がいるというふうに、
 神懸かりのさまが詳しく描写されているという点で貴重なこの資料は、
 天皇に対する皇后の役割が巫女性にあったということを
 明らかにしているという意味でも重要である。

テキストおよび『伝奇伝説事典』のいずれも、
皇后の「巫女性」を挙げています。
民俗学の観点から、を再考するや如何?

*柳田國男1917年「玉依姫考」を引きます。
  *柳田國男:「玉依姫考」『定本柳田國男集』第九巻、1962年、筑摩書房、
       初出1917年3月『郷土研究』
◆タマとは固より神の霊である。
 ヨルとは即ち其霊の人間に憑くことで、
 神に奉仕する巫女尸童が超人間の言語を為すだけでも
 斯く名づくることを得たのに、
 昔は其上に具体化したる霊の力が示されて、
 其果実の出現を以て愈々其依坐(ルビ:よりまし)の
 人に遠く、神に近きことを証拠立てたのである。

後世、神格化され「人に遠く、神に近き」存在に見える
「神功皇后」の実像は、
『古事記』記事を『古事記伝』に照らして読む限りにおいては、
神に成り代わって神の言葉を発するだけの
「神に奉仕する巫女尸童(よりまし)」のように見えてきます。
神功皇后を神格化する過程は
夙に『日本書紀』と合わせ鏡で見る作業を要します。

究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登