今週の「暮らしの古典」は、63話「節分の鬼《中篇》」です。
前篇では、言葉から「鬼」を探りました。
およそ鬼は悪者扱いされているようです。
それの検証をしましょう。
八百八橋を謳った大阪には鬼にまつわる小咄があります。
これは橋の下に集く鬼の話です。
拙著『水都大阪の民俗誌』和泉書院、2007年から引きます。
◆天満・渡辺・大江・福島界隈の川筋には、ひもじがる「鬼」の登場する伝承がある。
それは、
「『大昔はな、天神祭りの晩には、
大江山あたりから鬼が仰山大阪へやって来ましてな、
あの橋の下あたりで、舌舐めずりしていたもんやそうでっせ』と、
(天神祭りの船渡御見物の船に)同席していた90歳の芸人さんが教えてくれた。
橋の下の鬼たちは、
橋から滾れ落ちてくる人間を待ち受けていたのだという」という伝承がある。
口碑のことだから、いつのことだかわからない。
ここにあるのは、「舌舐めずりする鬼」である。
この話は*藤本義一さんからの受け売りです。
*藤本義一さん:藤本義一、1987年「わが天神祭り」『日本随筆紀行17』作品社
大江山の鬼は、天神祭の晩に橋の下まで出張して来ていたのでした。
写真図1 天神橋の橋の下 撮影:2020年9月19日
橋の下には妖しげなモノが潜んで居るとでも云うのでしょうか?
ボクが鬼の石造物に接したのは、
お地蔵さんを市岡高校の生徒たちと*調査している時でした。
1983年、大阪市港区の築港の高野山・釈迦院の
賽の河原地蔵尊の傍らに立つ鬼でした。
*調査:「大阪市港区の地蔵信仰に関する調査報告」
『近畿民俗』第106号、1986年2月
↓ここにアクセス
http://osaka-web-museum.na.coocan.jp/tano14-m.htm
福島区歴史研究会HP内「なにわ大阪民俗資料館」
1945年6月1日の空襲で広大な敷地の釈迦院は全焼し、
1952年に現在地に再建された釈迦院に移し祭られた当時は
子どもの石像の多くは割れ失われていました。
今日2024年1月27日、釈迦院を訪ねました。
ご住職(当時・副住職)とは、およそ40年振りの久闊を叙しました。
写真図2 現在の賽の河原地蔵尊の鬼 撮影:2024年1月27日
鬼さんは、何とも厳つい顔でしょう。
ご住職(1944年生)と背面の刻字を確かめましたところ、
「大正七年七月 立之」と読めました。
ボクの実見した鬼の立つ場所は
寺院に設けられた「賽の河原」でありました。
賽の河原地蔵さんの施主さんが手向けられたのか
真新しい仏花が目に止まります。
施主さんにとっては、鬼さんも信仰の対象なのでしょう。
以下、鬼の正体を追究する手掛かりとして、
鬼の住み処を探すことから始めます。
*『民俗語彙』と『広辞苑 第七版』 ©2018 株式会社岩波書店に
当たりました。
*『民俗語彙』:『綜合日本民俗語彙』第1巻、1955年、民俗学研究所、平凡社
まず「島」です。
◆おに‐が‐しま【鬼ヶ島】鬼の住んだという想像上の島。
「保元物語」、また「一寸法師」「桃太郎」の伝承によって有名。
「想像上の島」とは素っ気ない話ですが、
柳田國男初出1932~1935年の
新潮社版『日本文学大辞典』「鬼ヶ島」に次の記述があります。
◆(鬼ヶ城の説明の中で)即ち人間と隣を接して
かういふ怖ろしいものの領分があるとといふのが、
一つ以前の考へ方であつたらしいのである。
深山の奥でなく「人間と隣を接して」とあります。
柳田國男監修『綜合日本民俗語彙』の第3巻、1955年、民俗学研究所、平凡社に
「鬼ヶ島」は伝説・昔話としても一切、載っていません。
以下、鬼の住み処をリストアップしたのを地形ごとに整理しました。
山:山【立科山から出た鬼】オニイシ 伝説 鬼石。(上略)
同*(長野県)諏訪郡北山村の鬼石は立科山から出た鬼が足跡を印したという・・・・。
峠:峠【鬼が八幡神社の裏の山に棲んでいて人を悩ました】
オニゴシトウゲ 伝説 鬼越峠。
栃木県足利郡山辺村の八幡神社の裏の山にある。
むかし鬼がここに棲んでいて人を悩ましたといい、
麓には鬼の足跡という田もあって、それを耕せば病にかかるといい、
今は病田(ルビ:やまいだ)として不毛である。また八幡太郎の御荷越だともいっている。
谷:谷【大晦日には谷々の入口に札を立てると鬼が谷から出るのを防ぐ】
オニフダ 鬼札。
三重県志摩郡の菅島で、大晦日には谷々の入口に札を立て、
*(口偏に出、口偏に天、口偏に罔、口偏に鬼)と書いておく。
鬼が谷から出るのを防ぐという(島二)。
洞窟:洞窟:場:おに‐が‐じょう【鬼ヶ城】‥ジヤウ
三重県熊野市の海岸にあって、熊野浦の北端をなす大小数十個の洞窟群の称。
湯:温泉:おにこうべ‐おんせんきょう【鬼首温泉郷】‥カウベヲン‥キヤウ
宮城県北西部、大崎市にある温泉群。荒雄岳の南麓にある雌釜・雄釜の間歇泉が有名。
湯【鬼の湯で天狗の正体露見】
オニノユ 伝説 鬼の湯。山梨県西山梨郡大宮村にある。
むかし多田三八が天狗の片翅を切落した。
天狗はこの湯に入りに来て三八と再会し、正体が露見したという・・・・
家:おに‐どの【鬼殿】妖怪の住んでいる家。
特に、平安時代、京都三条の南、西洞院の東にあり、
中納言藤原朝成ともひらの憤死したところ。
おに‐の‐ま【鬼の間】清涼殿の西廂の南隅の一室。
殿上の間との境の南壁に、白沢はくたく王が五鬼を斬る絵がある。・・・・
家・部屋といったものもありましたが、
概して鬼の住み処が山間部に偏るようです。
伝承の層が幾重にも重なっているようですので、
折口信夫の著作に助けを求めます。
先ず遠そうな「鬼ヶ城」なる洞窟から始めます。
折口1928年3月頃の草稿に「洞穴」の記述があります。
◆おにの居る処は、古塚・洞穴などであるらしい。
死の国との通ひ路に立つ塚穴である。
神の奴隷・従者・神の弟子・神になる間の苦しみの形と言ふ様な
意味を持つたのは第二義らしい。
洞穴は、生と死が行き交う「境界」とでも解釈します。
次に湯を取り上げます。
鬼の湯での天狗の正体露見を通して天狗と鬼との関係性を探ります。
1930年5月『民俗芸術』を引きます。
◆此祭り*(信州新野の雪祭り)に於ける鬼は、殆、恐るべき鬼といふ考へはなく、
親しむべく、信頼せられるものゝ様に見えます。
そして最著しいのは、此鬼と、天狗とが、
此雪祭りに於てはほゞ一つものに考へられて居る事です。
「鬼が天狗と昔は鬼と天狗は同じものだつたとの記事は
既に1919年9月『民俗芸術』にも見られますが、
「恐るべき鬼といふ考へはなく、親しむべく、信頼せられるもの」に注目します。
この雪祭りの記事は、今日、「鬼は外、福は内」と唱え、追い出される鬼と違って見えます。
折口にとって「鬼」ならぬ「おに」とは、いったい何者なのでしょう。
折口に誘われて「鬼」への先入観を問題視します。
大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登あ