前回、示しましたように本ブログ「名告り」を
「木曽義仲の最期」として語られる
最後の戦に出陣する源義仲の名告り110字程度に焦点を絞りました。
テキストは前回と同じく『平家物語二』
(日本古典文学全集30、小学館、1975年)を用います。
適宜、私的に漢字を宛て、
原文に振られたルビは現代仮名遣いに改めています。
◆鐙(ルビ:あぶみ)踏ンばり立ちあがり、
大音声(ルビ:だいおんじょう)を上げて名のりけるは、
「昔は聞きけん物を、木曽の冠者、
今は見るらん、左馬頭(ルビ:さまのかみ)兼伊予守朝日の将軍
木曽義仲ぞや。
甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。
義仲討ツて兵衛佐(ルビ:ひょうえのすけ)に見せよや」とて、
をめいてかく。
今回は、「左馬頭兼伊予守朝日の将軍木曽義仲」からです。
これが義仲の名前です。
長ったらしいですが、
ちゃんと名目上の肩書き示し布告しているのです。
以下、継ぎ接ぎだらけの語釈を試みます。
左馬頭
「左馬頭」(さまのかみ)や如何?
『国史大辞典』の「馬寮」(めりょう)に次の記述があります。
◆律令制下、政府の馬の管理をした官司。(中略)
『大宝令』で、太政官管下に左右馬寮を設置。(中略)
長官の頭は従五位上相当。(中略)
諸牧馬貢進は平安時代中期には衰えたが、
武官として治安警察の任につく馬寮官人の地位は重視され、
中世以降まで続いた。
「昔」こそ田舎武士たる「木曽の冠者」であれ、
名告りの最後に挑発する文句に
「兵衛佐」呼ばわりされる源頼朝と比較して
「左馬頭」は位が高く、義仲自身の自尊意識を演出して語られます。
「伊予守」(いよのかみ)や如何?
伊予守
「伊予」は、今の愛媛県の旧国名です。
「伊余」「伊与」が宛てられますが、
「よ」は「ゆ」であって「湯」、道後温泉のある
「湯の湧き出る国」であります。
「かみ」は、前掲『広辞苑』に次の記述があります。
◆かみ【長官】(上の意)
律令制の四等官(しとうかん)の最上の官。官庁によって文字が異なり、
太政官では「大臣」、神祇官では「伯」、省では「卿」、
弾正台では「尹」、坊・職では「大夫」、寮では「頭」、司では「正」、
近衛府では「大将」、兵衛府・衛門府などでは「督」、
国では「守」
(826年以降、上総・常陸・上野では介(すけ)を守、長官を太守と称)と
書く。
この記事から「さまのかみ」は、左馬寮の一等級の長官は「頭」、「左馬頭」
「いよのかみ」は、伊予国の一等級の長官は「守」、「伊予守」となります。
強いて云えば、現在の愛媛県知事でしょうが、当時は名目上の肩書です。
「さまのかみ」「いよのかみ」いずれも一等級の官位を名告っております。
朝日の将軍
これに続く「朝日の将軍」や如何?
前掲『集成』本の「朝日の」頭注を挙げます。
◆この合戦の5日前、1月15日に義仲は征夷大将軍の院宣を受けた。
「朝日」は私称で、
北陸で根拠地としていた越中宮崎(現朝日町)が南方に
朝日岳を望む地であったところから、
義仲の栄誉の象徴として称したものであろう。
直前に院宣を受けて授かった称号「将軍」を織り込んでいるのです。
冠称としての「朝日」は、ゆかりの山岳の名称を引いたもののようです。
まことに旭日に輝く山岳を「栄誉の象徴」としてあしらったわけで、
実に意気軒高な仮名「けみょう」であります。
義仲
「源義仲」の「義仲」は、元服前の名前「幼名」に代わっての
実名「じつみょう」です。
相手方は呼び捨てです。
一条次郎
「甲斐の一条次郎とこそ聞け」につきましては、
前掲『集成』本の「冠者」の頭注引用箇所の続きに次の記述があります。
◆なお「一条の次郎」と呼んだ相手の名には
無官の田舎武士にとどまることが意識されている。
発語「聞け」に注目しますと、
義仲は実際に、この名告りをあげる前の場面に今井兼平から、
その名を聞いているからです。
写真図 木曾義仲イラスト
向かって右の武将が今井四郎兼平
「聞け」は係助詞「こそ」を受けての已然形で、
別に偉そうに言っているわけではありません。
『全集』本から今井兼平と木曾義仲との会話の場面を引用します。
◆京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつる者ともなく、
今井が旗をみつけて三百余騎ぞはせ集る。
木曽大きに悦びて、
「此勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。
ここにしぐらうてみゆるはたが手やらん」。
「甲斐の一条次郎殿とこそ承り候へ」
義仲の問いに対して今井は「甲斐の一条次郎殿」と
敬称の「殿」を付けて一条次郎の名を告げています。
尤も一条次郎が無官であったことは、
巻第四「源氏揃」の名前列挙の記述からも明らかです。
◆「まづ京都には、出羽の前司光信が子共、伊賀守光基(中略)
甲斐国には*(10名中、6番目に) 一条次郎忠頼(中略)
木曽の冠者義仲、伊豆には、流人前右兵衛佐頼朝、(中略)
陸奥国には故左馬頭義朝が末子、九郎冠者義経、
これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤なり。(中略)」とぞ申したる。
「出羽の前司」「伊賀守」といった
肩書きが実名の前に仮名として称えられています。
当時、無官であった義仲には「木曽の冠者」と仮名が付いているの対し、
「一条次郎忠頼」は、
仮名に肩書きがなく、無官であったことは明らかで
作中の義仲が
「無官の田舎武士にとどまることが意識されている」と
言えなくもありません。
最終回は、源頼朝が義仲の口から告げられます。
頼朝・義仲関係や如何?
大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師 田野 登