名告り(中篇) 暮らしの古典72話 | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

前回、示しましたように本ブログ「名告り」を

「木曽義仲の最期」として語られる

最後の戦に出陣する源義仲の名告り110字程度に焦点を絞りました。

 

テキストは前回と同じく『平家物語二』

(日本古典文学全集30、小学館、1975年)を用います。

適宜、私的に漢字を宛て、

原文に振られたルビは現代仮名遣いに改めています。

◆鐙(ルビ:あぶみ)踏ンばり立ちあがり、

  大音声(ルビ:だいおんじょう)を上げて名のりけるは、

 「昔は聞きけん物を、木曽の冠者、

 今は見るらん、左馬頭(ルビ:さまのかみ)兼伊予守朝日の将軍

 木曽義仲ぞや。

 甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。

義仲討ツて兵衛佐(ルビ:ひょうえのすけ)に見せよや」とて、

をめいてかく。

 

今回は、「左馬頭兼伊予守朝日の将軍木曽義仲」からです。

これが義仲の名前です。

長ったらしいですが、

ちゃんと名目上の肩書き示し布告しているのです。

以下、継ぎ接ぎだらけの語釈を試みます。

 左馬頭 

「左馬頭」(さまのかみ)や如何?

『国史大辞典』の「馬寮」(めりょう)に次の記述があります。

◆律令制下、政府の馬の管理をした官司。(中略)

 『大宝令』で、太政官管下に左右馬寮を設置。(中略)

  長官の頭は従五位上相当。(中略)

  諸牧馬貢進は平安時代中期には衰えたが、

  武官として治安警察の任につく馬寮官人の地位は重視され、

  中世以降まで続いた。

 

「昔」こそ田舎武士たる「木曽の冠者」であれ、

名告りの最後に挑発する文句に

「兵衛佐」呼ばわりされる源頼朝と比較して

「左馬頭」は位が高く、義仲自身の自尊意識を演出して語られます。

「伊予守」(いよのかみ)や如何?

 伊予守 

「伊予」は、今の愛媛県の旧国名です。

「伊余」「伊与」が宛てられますが、

「よ」は「ゆ」であって「湯」、道後温泉のある

「湯の湧き出る国」であります。

「かみ」は、前掲『広辞苑』に次の記述があります。

◆かみ【長官】(上の意)

  律令制の四等官(しとうかん)の最上の官。官庁によって文字が異なり、

  太政官では「大臣」、神祇官では「伯」、省では「卿」、

  弾正台では「尹」、坊・職では「大夫」、寮では「頭」、司では「正」、

  近衛府では「大将」、兵衛府・衛門府などでは「督」、

  国では「守」

  (826年以降、上総・常陸・上野では介(すけ)を守、長官を太守と称)と

  書く。

 

この記事から「さまのかみ」は、左馬寮の一等級の長官は「頭」、「左馬頭」

「いよのかみ」は、伊予国の一等級の長官は「守」、「伊予守」となります。

強いて云えば、現在の愛媛県知事でしょうが、当時は名目上の肩書です。

「さまのかみ」「いよのかみ」いずれも一等級の官位を名告っております。

 朝日の将軍 

これに続く「朝日の将軍」や如何?

前掲『集成』本の「朝日の」頭注を挙げます。

◆この合戦の5日前、1月15日に義仲は征夷大将軍の院宣を受けた。

  「朝日」は私称で、

  北陸で根拠地としていた越中宮崎(現朝日町)が南方に

  朝日岳を望む地であったところから、

  義仲の栄誉の象徴として称したものであろう。

 

直前に院宣を受けて授かった称号「将軍」を織り込んでいるのです。

冠称としての「朝日」は、ゆかりの山岳の名称を引いたもののようです。

まことに旭日に輝く山岳を「栄誉の象徴」としてあしらったわけで、

実に意気軒高な仮名「けみょう」であります。

 義仲 

「源義仲」の「義仲」は、元服前の名前「幼名」に代わっての

実名「じつみょう」です。

相手方は呼び捨てです。

 一条次郎 

「甲斐の一条次郎とこそ聞け」につきましては、

前掲『集成』本の「冠者」の頭注引用箇所の続きに次の記述があります。

◆なお「一条の次郎」と呼んだ相手の名には

  無官の田舎武士にとどまることが意識されている。

 

発語「聞け」に注目しますと、

義仲は実際に、この名告りをあげる前の場面に今井兼平から、

その名を聞いているからです。

写真図 木曾義仲イラスト

    向かって右の武将が今井四郎兼平

「聞け」は係助詞「こそ」を受けての已然形で、

別に偉そうに言っているわけではありません。

『全集』本から今井兼平と木曾義仲との会話の場面を引用します。

◆京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつる者ともなく、

 今井が旗をみつけて三百余騎ぞはせ集る。

 木曽大きに悦びて、

 「此勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。

 ここにしぐらうてみゆるはたが手やらん」。

 「甲斐の一条次郎殿とこそ承り候へ」

 

義仲の問いに対して今井は「甲斐の一条次郎殿」と

敬称の「殿」を付けて一条次郎の名を告げています。

尤も一条次郎が無官であったことは、

巻第四「源氏揃」の名前列挙の記述からも明らかです。

◆「まづ京都には、出羽の前司光信が子共、伊賀守光基(中略)

 甲斐国には*(10名中、6番目に) 一条次郎忠頼(中略)

 木曽の冠者義仲、伊豆には、流人前右兵衛佐頼朝、(中略)

 陸奥国には故左馬頭義朝が末子、九郎冠者義経、

 これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤なり。(中略)」とぞ申したる。

 

「出羽の前司」「伊賀守」といった

肩書きが実名の前に仮名として称えられています。

当時、無官であった義仲には「木曽の冠者」と仮名が付いているの対し、

「一条次郎忠頼」は、

仮名に肩書きがなく、無官であったことは明らかで

作中の義仲が

「無官の田舎武士にとどまることが意識されている」と

言えなくもありません。

 

最終回は、源頼朝が義仲の口から告げられます。

頼朝・義仲関係や如何?

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師 田野 登