今週の「暮らしの古典71話」は「名告り(前篇)」とします。
菜種梅雨を思わせる長雨から脱し、桜も開花し4月になりました。
学校では、入学・進級があり生徒たちは新しい友だちと出会います。
担任をしていた時、
苦労しましたのはHRの生徒どうし自己紹介しあう時間です。
写真図 学校での自己紹介のイラスト
いきなり「自己PRをやってください」と要求したところ、
最初は白けていました。
今、思えば多様な生徒たちがいて、
自己紹介すること自体に抵抗感があった生徒もいたことでしょう。
今回の「暮らしの古典71話」は、武士の自己紹介ならぬ
「名告り」を取り上げます。
武士の「名告り」にはオーラのような霊気を感じさせるものです。
名告りは戦場にあって、軍団の気持ちを高ぶらせる行為です。
高校での「古典」の授業で『平家物語』の「木曽義仲の最期」を何故か、
三学期に教えたものです。
時あたかも「薄氷は張ったりけり、深田ありとも知らずして・・・・」を
声を嗄らしながら一所懸命に朗読したものです。
今回、最後の戦に出陣する木曽義仲の110字程度の
名告り記事に焦点を絞ります。
テキストは
『平家物語二』(日本古典文学全集30、小学館、1975年)を用います。
適宜、私的に漢字を宛て、
テキストに振られたルビは現代仮名遣いに改めます。
◆鐙(ルビ:あぶみ)踏ンばり立ちあがり、
大音声(ルビ:だいおんじょう)を上げて名のりけるは、
「昔は聞きけん物を、木曽の冠者、
今は見るらん左馬頭(ルビ:さまのかみ)兼伊予守朝日の将軍木曽義仲ぞや。
甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。
義仲討ツて兵衛佐(ルビ:ひょうえのすけ)に見せよや」とて、をめいてかく。
「左馬頭兼伊予守朝日の将軍木曽義仲」が名前です。
ずいぶん長ったらしいですが、
ちゃんと名目上の肩書き示しPRしているのです。
以下、継ぎ接ぎだらけの語釈を試みます。
鐙
まず「鐙」ですが、「あぶみ」と読みます。
*『大言海』の「鐙」には、
「足踏(ルビ:アシフミ)ノ略(足掻(ルビ:アシカキ)、あがき。
足結(ルビ:アシユヒ)、あゆひ)障泥(ルビ:アフリ)モ、
足触(ルビ:アシフリ)ノ略ナリ」とあります。
*『大言海』:『新編 大言海』冨山房1982年、「鐙」
「あじろ」が「網代」であったりもするように、
「あぶみ」は「足」を意味する一音節「あ」に
動詞が付いた複合語というのです。
用字につき*『大漢和辞典』親文字「鐙」の末尾に
「あぶみ」が挙げられています。
*『大漢和辞典』:『大漢和辞典』巻11修訂版、1985年
中国の漢字字典『正字通』からの引用は以下のとおりです。
◆鐙、今馬鐙、馬鞍両方旁足所レ踏也。
鞍の両側にあって、足で踏ん張る所にある馬具です。
名告りをする際、立ち上がって、敵を威圧する姿勢を取ります。
敵をビビらせるのに少しでも大きく見せるのです。
そして大声で堂々と自分を紹介するのです。
大音声
「大音声」は『広辞苑 第七版』 ?2018 株式会社岩波書店に拠りますと
「だい‐おんじょう」と読み「大きな音声。おおごえ」を意味します。
『平家物語』では、「大音声」は、32例用いられていますが、
そのうち15例は「なのり」に用いられ、当該の用例のごとく
「大音声を上げて名のり」が常套句となっていました。
なのり
「なのり」は『広辞苑』の「な‐のり【名告・名乗】」に
次の記述があります。
◆①自分の名・素性などを告げること。
また、その名。特に、武士が戦場でおこなうもの。「―を上げる」
戦場における名告りは、
声を張り上げて軍陣を鼓舞するパフォーマンスでもありました。
昔は聞きけん物を
「昔は聞きけん物を」につき、*『平家物語全注釈』の
「日来は聞きけんものを」頭注に次の記述があります。
*『平家物語全注釈』:『平家物語全注釈』下巻(一)
(日本古典評釈・全注釈叢書、角川書店、1967年)
◆日頃は聞いていたであろうな。『覚一本』には
「昔は聞きけん物を、木曽の冠者今はみるらん、左馬守云々」とある。
「昔」は「今は」が対句の形であったのを、
「日来は」と変わったもので、*〈( )内省略〉
「日来は木曽の冠者の名を聞きけん物を、
今は左馬頭・・・・源義仲ぞや、その我を見るらん」の意。(以下略)
『平家物語』のような軍記物語のカタリは、
さまざまに書き写され伝承されてきたものであり、
変遷をたどることができます。
語りの聞き手である客に対して
如何に感動的な出来事として語るか、
その演出の形成過程を知ることができます。
教える側からしますと、テキストのとおり
「昔は・・・・けん」「今は・・・・らん」が今日差異が消えた
助動詞の過去の推量と現在の推量に気づかせるのに
恰好の箇所でもあります。
木曽
ここでの「木曽」は、「生まれ育った境遇」を指します。
『広辞苑 第七版』 2018 株式会社岩波書店の
「源義仲」の冒頭は以下のとおりです。
◆平安末期の武将。為義の孫。父義賢(よしかた)が義平に討たれた後、
木曽山中で育てられ、木曽次郎という。
乳母子「めのとご」にして乳兄弟の今井四郎兼平とは、
最期の戦を共にしましたが、
山国育ちなるゆえか、都人とトラブルを起こすところもあり、
物語では*「華麗で孤独な風雲児像」として語られます。
*「華麗で孤独な風雲児像」:
『平家物語下』(新潮日本古典集成(第47回)1981年)「義仲評価」
冠者
「冠者」(かんじゃ)について
『新潮日本古典集成』本の頭注に次の記述があります。
◆「冠者」は元服(加冠)した者であるが、
官職や然るべき肩書きがあればそれを呼び名とする。
したがって、冠者としか言えない、肩書きのない者という卑称でもある。
次の将軍の肩書きと対照させて、
一介の田舎武士が天下の覇者となったことを誇らかに示したのである。
かつての田舎侍が今や、「左馬頭兼伊予守朝日の将軍」となった、
「この俺様を篤と見給え」というわけです。
喧嘩を売るようなものですさかい、迫力満点にやるものです。
なんだか授業をやりたくなってきました。
この続きは来週にします。
義仲の名告りの佳境を取り上げることになります。
大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登