前回、≪万葉語「ミナト」≫に、
「「水門」(みなと)の格助詞「な」は
平安時代以降は名詞の構成要素となり、
「ミナト」の「水」が隠れてしまった」としました。
それを承けて≪ミナト「水門」情景≫を探索することにします。
「水門」にまつわる地形、風物に
人為をからめて記述してみようと考えています。
手始めにミナト「水門」の地形から入ります。
折口信夫はミナト「水門」を地形として捉えていました。
≪みなーと[水門]≫の項を引用します。
◆両側から迫つて来るか、真中のきれた土地が、
門のやうに立つてゐて、
其間を通るやうになつた地形は、山にも川にも、
海にもあつて、
山門[ルビ:ヤマト]・川門[ルビ:カハト]・
迫門[ルビ:セト]などいふ。→
「ト」は狭まった場所のようです。
折口の引用の続きを記します。(下線は原文では傍点)
◆←みなは水の形容詞的屈折で、
水之[ルビ:ミノ]ではあるまい。
今日の湊といはれてゐるのは、
すべて海湾の船泊りの事であるが、
海から川へ入る川口の、波除けに便な地をいふので、
海から川口へ狭窄した地形をさしていふのである。
この記事を*『日本国語大辞典』の「と」との対応をみます。
*『日本国語大辞典』:『日本国語大辞典』第2版第9巻、小学館2001年
◆と[戸・門](名)1⃣出入りする所。出入り口。戸口。2⃣(省略)
3⃣(門)河口や海などの両岸が狭くなっている所。(以下略)
「ミナト」の「ト」の地形は、
まさに「両岸が狭くなっている所」であります。
テキストからは、まず「海」を取り上げます。
『テキスト3』1973年「雑歌二十七首」中の巻13―3234です。
〽やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の 聞こし食す[ルビ:を―]
御食[ルビ:みけ]つ国 神風の 伊勢の国は(中略)
川見れば さやけく清し 湊なす*[原文:「水門成」]
海も広し(以下略)
打ち出でて見れば、壮大な伊勢志摩の海です。
テキストの「湊なす」の頭注を取り上げます。
◆ミナトは河口などに設けられた舟着き場。
伊勢湾の北半を巨大な川の川尻に見立てた鳥観図的表現。
ナスは、~のような、の意。
この頭注では「舟着き場」に言及しています。
湾内では袋状に広がった安全な水域ゆえ舟の停泊に適していたのです。
写真図1 大野川漁港(大阪市西淀川区)の船着き場
撮影:2017年6月23日
写真図2 大野河口(大阪市西淀川区)の船着き場
撮影:2024年5月4日
次に、「水門[ルビ:みと」*[原文:「湖」を取り上げます。
『テキスト1』1971年、巻3-253の一説であります。
〽稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ
(一に云ふ、「水門[ルビ:みと」*[原文:「湖」]
テキストの頭注「水門」は次のとおりです。
◆ミトはミナト(230)と同じく、
河口またはそこの舟着き場をいう。
原文「湖」は「大陂也」(説文解字)とあり、池沼などの大きいものをさす。
河口部の袋状の水域を取り上げているのです。
テキストの頭注「水門」は、
*「折口1935年」記事との関連が認められます。
*「折口1935年」:1935年10月「やまとの一もと薄」『多摩』第1巻第1号
(以下の引用文の下線は、原文では傍点)
川口の両地鼻の内側、
其自ら変形して拡つた地形を言つてゐる。
川口の内の湾状になつた処をみなとと言ひ、
字には古く、湖-誤つて潮の字とも―をさへあててゐるのだ。
巻7-1169の場合、「近江の海」(琵琶湖)に続く原文:「湖」を
「湊」[ルビ:みなと]と訓読している場合もあります。
巻3-253の「加古の島*[原文:「嶋」]につき、
『集成1』1976年頭注に
「加古川の島、三角洲≪ママ≫か」とあります。
三角州も河口部に出来する地形であります。
ここでは『テキスト2』1972年、巻7-1308の
水門[ルビ:みなと]を挙げます。
◆譬喩歌 寄レ海
〽大き海を さもらふ水門*[原文:「水門」]
事しあらば いづへゆ君は
我[ルビ:わ]を率し[ルビ:ゐー]のがむ
『集成2』1978年の通釈は以下のとおりです。
◆大海原の風向きを窺っている港で、
もし何か事が起こったら、あなたはどちらへ
私を連れて難を避けてくださいますか。
港は波を除ける安全な場所のはずですが如何?
『集成2』の頭注は気が利いています。
◇大海 世間を譬えた。
女の家を譬えた。
◇事 男女間を隔て妨げる事件を譬えた。
◇しのがむ 「しのぐ」は障碍を克服すること。
女が男の誠意を確かめているのです。
古来、婿入り婚が趨勢であったことからすれば、
女の家が安全な舟着き場に譬えられてのことです。
次回は、ミナト「水門」の情景を探ります。
大阪民俗学研究会代表
大阪区民カレッジ講師
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登