キックボクサーのウォームアップといえば、縄跳びと相場が決まっている。しかし、2008年にジムに入会し、バンデージを巻いた私が案内されたのは、トレッドミルのほうだった。そのマシンに乗る私に対し「ここで10分くらい走ろう」と言い残し、大宮司トレーナーは指導に戻っていった。

 

 

2008年10月29日、入会当初の筆者

Image via SILVER WOLF GYM - アメブロ

 

 

縄跳びでなくトレッドミルのほうを案内された理由は、なんとなく解っていた。当時のシルバーウルフジムでは入会時に(1. プロ志望 2. 体力作り 3. ダイエット) から入会理由を選ぶシステムとなっており、私がそこで2を選択したからだ。1を選んでいれば、きっとプロへの第一歩としてロープを跳ばされていただろう。正直な19歳当時の胸の内を明かせば、プロに興味が無いわけではなかった。いつかはアマチュアの試合に出たいと思っていたし、機会があれば1戦くらいプロで戦ってもいいと思っていた。ただ、大学の学費を払ってもらっている手前、両親からの「ジムにのめり込みすぎないように」という忠告を無視するわけにもいかないと考えるだけの真面目さも、同時に持ち合わせていた。そして、この時1でなく2を選択したのは、後々考えると正解だったともいえる。「絶対チャンピオンになります」と言って門を叩いた威勢のいい若者の姿を数ヶ月後には見なくなる、といったことは、格闘技のジムでは日常茶飯事なのだ。2を選択したことでトレーナー各位が幾分優しく接してくれたおかげか、私は10年以上経った今も、同じジムの会員として在籍できている。

 

さて、トレッドミルである。そのウォームアップの効果が縄跳びのそれに比して劣っているというわけではないものの、私が思い描いていたのは、リズミカルにロープをスキップする自分の姿だった。トレッドミルなんて、それこそダイエット目的でキックボクササイズをやりにきたような人がやるもの。思い描いていた自らの姿と現実とのギャップに、私は少し落胆した。

 

また、トレーナー陣が「幾分優しく接してくれた」とはいえ、ここはやはり格闘技のジムである。体育会的な上下関係とはまた違う厳しさを、19歳の私はジム内の空気から感じ取っていた。経験したことがないので想像で語るしかないが、例えば現場仕事のそれに近いのではないかと思う。初日に案内されたのがトレッドミルであった以上、自分は淡々とこの機械の上で走るしかない。壁に掛かっているロープを勝手に取って跳ぶなんて許されない—そう考えた私は、練習に来るたびに入り口で挨拶するとトレッドミルに乗り、静かにそのスイッチを押していた。

 

ジムでかかっていた音楽の多くはヒップホップだった。BUDDHA BRAND「人間発電所」やANARCHY「Fate」、加藤ミリヤ「夜空」など数曲を除けば、USのヒップホップ・R&Bがほとんどだった。それがニューヨークの老舗ラジオ曲=HOT 97のものであることを知ったのは、入会して3年ほど経ってからだ。月曜19時からのビギナークラスに向けトレッドミルを走っている時間帯は、ニューヨークの同日午前5時台。パーソナリティーのイーブロ(Ebro)らが朝の声として最新のヒップホップ楽曲をNYC中に届けていたのだと思うが、番組の詳細は憶えていないし、そもそも当時の私にラジオでの会話を理解できるほどのリスニング力があったか疑わしい。ただ、そこでオンエアされる楽曲群の中で、ニーヨ(Ne-Yo)の「Miss Independent」とT.I.の「Whatever You Like」がひときわ私の耳に残ったことだけは、はっきりと憶えている。当時はリル・ウェイン(Lil Wayne)の「Lollipop」やジャズミン・サリヴァン(Jazmine Sullivan)の「Need U Bad」あたりも特大ヒットでよく耳にしたし、入会1ヶ月後にはカニエ・ウェスト(Kanye West)の『808s & Heartbreak』もリリースされたので、その先行シングルである「Heartless」もしばしば流れていたが、何よりも脳にこびり付いたのは前述の2曲だったのである。

 

 

 

 

 

アップテンポな「Miss Independent」はトレッドミルとの相性が抜群に良かったし、少しゆっくりめに走れば私の走るリズムは「Whatever You Like」のビートと見事に一致した。曲の内容なんて分からない。でも、それでよかったのだ。いつしか帰宅すると自室のPCで最新のヒップホップ・チャートを眺めてはYouTubeで各曲を再生し「ジムで聞いたあれ、これだったのか」と確認する作業が私の習慣となっていた。もっとも、その習慣が始まってすぐにネット上での「最近のヒップホップはクソ」という発言を目にし、2パック(2Pac)をはじめとする90年代のほうに方向転換したことは、これまでにも何度か述べてきたとおりなのだが。

 

 

翌年3月、KENトレーナーの試合を応援しに行った時だろうか。ほぼ同時期に入会したプロ志望のシゲくんと帰り道で一緒になった。このシゲくん、それこそ「『絶対チャンピオンになります』と言って門を叩いた威勢のいい若者」でありながら、ほぼ毎日練習に姿を現し続けており、私は一目置いていたが、それまでに練習以外で話したことはなかった。前年12月に同じビギナークラスに参加していたシゲくんとのぎこちない会話の中で「翔くんもKAMINARIMON(アマチュアの大会)出ましょうよ〜」などと言われながら—「くん」付け+敬語がジムの若手同士の会話ではデフォルトだった—最近の練習事情を共有しているうちに、衝撃の事実が明らかになった。

 

え、縄跳び全然使っていいっすよ! どんだけ遠慮してんすか(笑)。それ、ジムに来て「サンドバッグ使っていいですか?」って訊くようなものですよ(笑)。

 

次の日、私はいつもどおり入り口で一礼すると、即座に壁に掛かったロープを手に取った。ニーヨやT.I.を聞きながら走っていたあのトレッドミルに乗る機会は、それ以降めっきり減ってしまった。それでも、今でも「Miss Independent」や「Whatever You Like」を耳にすると、10年以上前、ジム内の張りつめた空気に半ば緊張しながら、どれだけ走っても変わらない景色を眺めていた時間を思い出す。

 

 

 

 

告知

J・コール(J. Cole)がThe Players' Tribuneに寄稿したエッセイの翻訳を、洋楽ラップを10倍楽しむマガジンさんに寄稿いたしました!

 

 

このエッセイ、本当にオススメなので、ぜひお読みください! J・コール、こういう文章も上手いなと思わされます。コールのバスケットボールのスキルが素人のそれでないことは素人の私にも分かっていましたが、今でもNBAを夢見るほどだとは知りませんでした。彼の人生における次章が何であれ素直に応援したいなと思いましたし、僕もまたキックの試合に出てみようかなと思いました(笑)。音楽とモチベーションの話もたいへん興味深く、以前に比べて記事を書く機会、特にブログでリリックを対訳する機会が減った僕としては、おこがましいですが共感する部分もあります。繰り返しになりますが、読んでください!