好きと公言することが道徳的に恥ずかしいわけではないけれども、なんだかちょっぴり照れくさい—そんな曲を、誰しも1つや2つは持っているのではないだろうか? 私にとってはシアラ(Ciara)と50セント(50 Cent)の「Can't Leave 'Em Alone」がその筆頭だ。特に夏はこの曲を少し大きめの音量で聴きながらウキウキな気分でお出かけしたくなるが、例えば電車でたまたま会った知人に「何聴いてるの?」と訊かれたとして、iPhoneの画面を見せることに1秒たりとも躊躇しないと言えば、嘘になるであろう。

 

 

Ciara - Can't Leave 'Em Alone ft. 50 Cent

Image via Disgcogs

 

 

 

シアラだから? いや、同じシアラでも、例えば「1, 2 Step」や「Oh」だったら、同じだけの気恥ずかしさを覚えないだろう。曲調があまりにポップだからだろうか? そんなことを言い出したら聴けなくなる曲が、私のライブラリには山ほどあるけれど、それは決定的ではないものの一因かもしれない。悪い男に惹かれてしまう乙女心が主題だから、というのもまた、決定的とまではいえない一つの理由であろう。複合的な要因が絡み合って、私はこの曲のアートワークが表示されたiPhoneのスクリーンを知人に見せることを躊躇するのだろう。英語には"guilty pleasure"という表現があるが、それがピッタリなのがこの曲だ。一昔前の男性にとっては、一人で喫茶店でパフェやケーキを注文することが、若干の気恥ずかしさを伴う行為だったかもしれない。たぶん、そんな感じである。

 

 

こうしたguilty pleasure的な音楽の幅と受容のされ方は、私の観察範囲では、多くの人が想像する以上に日米で大きく異なる。それを痛感したのが、2年前の『The Championship Tour』におけるSZAのステージだった。

 

 

あれだけ何度も聴き、そして歌ってきたSZAの曲たちが、なぜか歌えないのだ。ソーシャル・メディアでも各種メディアでも、彼女のアルバム『Ctrl』(2017年)を絶賛する男性の声をたびたび目にしてきたのに、その日の会場=The Forumには「男は女性シンガーの曲を大っぴらに好まないもの」という〈前提〉が静かに、しかしはっきりと横たわっているのを感じた。どの曲でも女性陣の大合唱が聞こえる一方で、野郎の声は一部たりともその中に混じっていない。「LAの男の子、どうした?」状態である。最後に「The Weekend」が始まると、SZAの声に被せて会場中の女の子たちが"You say you got a girl"と合唱を始めるのを、ただその場に立ち尽くして聴くよりほかになかった。

 

ちなみに、私にとってSZAの曲たちは、冒頭で述べた「Can't Leave 'Em Alone」のような、好きと公言することがちょっぴり照れくさい類の音楽ではない。もし日本で彼女のライブが行われるとしたら、ほぼ確実に、わりと大きめの声でシンガロングしているだろう。Netflixの『親愛なる白人様』(原題:Dear White People)では、主人公=サマンサが通学中にイヤホンで聴く曲をポップからヒップホップに切り替えるシーンがあった。男女を問わず、米国では日本以上に、先述の〈前提〉が持つ力が大きいのかもしれない。

 

 

一人で喫茶店でパフェやケーキを注文することに気恥ずかしさを覚える男性は、今どれほどいるだろう? その行為と同様に、SZAのライブで男性がシンガロングすることが市民権を得るのは、一体いつになるのだろうか? 長財布は女性とゲイが持つものとされるかの国では、それはだいぶ遠い未来になりそうだ。この国における〈前提〉の弱さ(もちろん、モノによるだろうけれども)をありがたく思いつつも、iPhoneのスクリーンに表示された「Can't Leave 'Em Alone」のアートワークを何の躊躇もなく知人に見せられる日は、そうすぐにはやってこなそうだ。誰にもジャッジされることのないこのマンションの一室で、私はシアラと50が裸で抱き合うスキャンダラスな一幕を眺めながら、ひとり歌うのだ。