会某の先某とBlack Lives Matteについて話すなかで推薦され、読みました。読んでいる間、なんとも言えない気持ち悪さを散々覚えたのに、読み終わると胸がすく思いで、でも思い返すとやっぱり少々の気持ち悪さが拭えないことに気づきます。しかし、これは経験する価値と必要のある気持ち悪さだとも確信しています。

 
 

 
僕は〈見栄〉という概念を理解し、おそらくは誰しもがそうであるように自分自身、多少なりとも見栄を張って生きている自覚があります。それは生まれつきなのかもしれないし、ラッパーたちがフレックスする様子を目の当たりにしてきたせいなのかもしれません。ただ、僕は現在の自分について見栄を張ることこそあれど、出自に関して見栄を張る感覚が、いまいちというか、正直まったく理解できません。これもまた、生まれつきなのかもしれないし、ラッパーたちが異口同音に成り上がりのストーリーを語るのを聴いてきたからなのかもしれません。不謹慎なのを承知で言えば、生まれがゲトーで金持ちなら、そのほうがボンボンよりも箔がつくと考えるくらいです。東日本で生まれ育ったせいか、社会で習う部落差別の話も「酷い」とか以前に「なぜそんなことが差別の原因になりうるのだろう」としか思えずに聞いていました。本作の登場人物には例外なく、この出自に関する〈見栄〉の意識がデフォルトで備わっているので、そこに対する違和感を抱きながら読みました。
 
しかしながら、読み進めていくうちに、これは上述のように感じる自分自身にもrelevantな課題をテーマにした作品なのだと、半ば強引に気づかされました。
 
 
 
 
—以下ネタバレ有—
 
 
 
 

優越意識と過度な一般化

本作では、人種に限らず、一般に差別を起こすキー・ファクターが炙り出されます。それは「優越意識と劣等感」です。例えば、当時の米国でニグロ(註:この単語はNワードを想起させるため、僕自身、日常で使うことはありませんが、本作においては「黒人」でなく「ニグロ」が用いられているため、本記事では後者の表記とさせてください。聞きかじりですが、マルコム・Xなどは自分たちのアイデンティティを誇示するために"black people"よりも"negro"という呼称のほうを好んでいたとか…彼の伝記がまだ積ん読なので、読んだらシェアします!)よりも低層階級だったプエルトリカンの夫=ホセを持つ麗子を、主人公=笑子は憐憫しつつ、ニグロの夫を持つ自身と麗子とを比較し安堵してしまいます。また、人種的多様性に富んだブルックリンの街に感動を覚えつつ、そこにプエルトリカンが居ないことを、やはり肯定的に捉えてしまいます。さらには、井村とのやりとりの中で「私はプエルトリコじゃないのよ!」という言葉まで吐いてしまいます。これらの言動が、プエルトリカンへの差別意識をあらわにする夫=トムでも同僚=竹子でもなく、彼らのプエルトリカンに対する侮蔑的な態度に嫌悪感を抱いた笑子のものだという点が示唆的です。誰しも自分が弱ったとき、自分よりも弱い立場の人間をスケープゴート的に扱ってしまうという理(ことわり)が、残酷なまでに正直に描かれています。『ハーレムの熱い日々』における、吉田ルイ子さんの元夫=ロバート氏が吐き捨てた台詞を思い出しました。もしかしたら、ロバート氏を糾弾した吉田さんでさえ、極限まで追い詰められたら、本意でないはずの言葉が口をついて出てきてしまうかもしれません。これは、上述の〈見栄〉とは似て非なる問題です。
 
また、トムとその弟=シモンの体たらくを見て「ニグロは、やっぱりニグロなのだ」と呆れた笑子にも、理解できる部分はありました。ある一人の特性がその人の属する集団の全員に当てはまるとは限らないのは当たり前のことですが、それでも僕は、Uberのドライバーがずっと友人と通話しながら運転しているのを見て、さらに友人のJoshが日本旅行中もしきりにEarPodsで母親と通話しているのを見て、「こいつら(黒人)、なんでこんなに電話が好きなんだろう?」と思いました。もっと身近な例でいえば、友人を見て「ヤンキー上がりの人って、なんでこんなに電話が好きなんだろう?」と思うこともあります。これまた、少数の人を見てその人たちが属する集団の人々を十把一絡げにしてしまうという理の、残酷なまでに正直な発露です。これが「電話が好き/嫌い」というレベルのものであれば、なんらオフェンシブではないかもしれませんが、そこに嫌悪感やセンシティブな要素がミックスされると厄介です。そして、それは案外簡単に起こりうることだと思います。
 
自分が優越感に浸れる相手を見つけ出して安心するのも、少数のサンプルから十把一絡げに判断してしまうのも、誰にも避けられないことなのだと思います。露骨に人を傷つけるような言動に走るのは論外ですが、多くの差別的言動はそうではなく、上述のような場合に、無意識のうちに起こるのではないでしょうか? その前提を今一度噛み締めることの重要性に、本作で改めて気づかされました。
 
 

レイシズムの牙が自らに向けられるとき

悪意によるものであれ構造的なものであれ、人種差別が最悪なのは誰かの命が奪われるときですが、それが自らに向くのもまた悲しいことです。
 
英語には「ありのままの自分で心地良い」という意味の"comfortable in one's own skin"という成句がありますが、このフレーズにおいて最後の1語に"clothes"でも"body"でもなく"skin"が用いられているのは、事実としてどうかは分かりませんが、ひょっとしてレイシズムの問題と無関係でないのでは?と思いました(正確な起源をご存知の方、ご教示いただけますと幸いです🙏)。
 
生まれたばかりの愛娘=メアリイがブロンドと碧い眼の持ち主になることを期待する、ニグロのトム。ベシィの眼が茶色くなった朝に落胆の色を見せる、ユダヤ人のレイドン氏。1億歩譲って、これらが「社会で不自由なく生きやすいように」という実利的な理由からの期待や落胆であればまだいいですが、「ブロンドこそが至高」「眼の色は碧しか勝たん」という考えからくるものなのであれば、それこそ"uncomfortable in one's own skin"であり、本当に悲しいことだと感じます。
 
東南アジアでは一般的に白い肌のほうがモテると聞きます。日本にも「色(の)白(い)は七難隠す」という言葉があります。そうした価値観の存在までを否定するつもりはありませんし、そもそも日本にも(ご高齢の方は別にして)焼けた肌のほうが好みという人はかなりいるようにも思いますが、不可逆性を持つ肌の色について画一的な美の基準を設けることは、体型に関するそれを設けること以上に多くの人の自尊心を損なうことになり、だからこそ映画におけるホワイトウォッシングが問題視され、だからこそメディアや企業は画一的な美の基準をプロモートしないよう細心の注意を払わねばならないのだなと、当たり前のことを再認識させられました(そうとはいえ、オスカーの新条件設置については諸手を挙げて賛成できないのが正直なところですが…)。
 
 

2つの「非色」とBLM

本作でプエルトリカンのくだりを読んで、あるいは何度か繰り返される「問題は色ではないのだ」という一節を読んで、心に浮かべたのは、スキッド・ロウに暮らすヒスパニックのことでした。
 
LA HOOD LIFE TOURでは、ヒップホップ・ファンにとってはなじみの深いコンプトンやワッツやイングルウッドといった街を、キャデラックのエクスカージョンで巡ります。これらの街を含むエリアは、一般的に広義でサウスセントラルと呼ばれます(註:現在ではSouth Central Los Angelesという呼称は公式のものでなく、South Los Angelesといい、またこれは狭義でコンプトンやイングルウッドを除いた特定のエリアを指します)[1]。上に挙げた3つのうち、コンプトンではヒスパニックの人口比率が黒人のそれの2倍を上回っている(註:統計上、ヒスパニックはどんなミックスでもカウントされる一方、黒人は黒人のみの血が流れている場合にカウントされる)[2]ため、単純に「黒人居住地区」とはいえないのですが、ワッツやイングルウッドを含めたサウスセントラル全体は、黒人が最も多く住んでいる地域と言って差し支えないはずです。
 
サウスセントラルでは映画『トレーニング デイ』(原題:Training Day、2001年)のロケ地からレイマート・パーク、THE MARATHON CLOTHING、スローソン・スーパー・モール、ワッツ塔、ルーダーズ・パークまで“名所”を巡り、それはそれは大興奮なのですが、ヒップホップの文脈抜きにして最も衝撃を受けたのは、実はスキッド・ロウでした。路地に沿って隙間なく並ぶテントと、そこで生活を送るホームレスの人々。彼らの肌の色はサウスセントラルで見かける人々のそれよりもかなりライトで、その服装は肌を覆う以上の役割を果たしていないように見えました。人々が憧憬したり畏怖したり好奇の目を向けたりするサウスセントラルの向こう、いや、DTLAやハリウッドからすれば手前に、視線を浴びることもない人々が暮らしているという事実が、ただただショッキングでした。本作のタイトル「非色」には「(問題は)色に非(あら)ず」という意味以外に、スパニッシュ・ハアレムのプエルトリカンやスキッド・ロウのヒスパニックのような「色」としてさえ扱われない人々の存在が掛けられているのかもしれません。そういえば、バークリーやオークランドでテントを張って暮らしている人々の肌もライトだったことを記憶しています。コロナ下で彼らがどう暮らしているか、今の今まで一瞬たりとも案じなかった自分を恥じています。
 
そして、本書を読み終え、ふと一つの疑問が頭をよぎりました。「問題は色ではないのだ」は果たして本当なのか? 上述のとおり、ハアレムのニグロよりも、あるいはサウスセントラルの黒人よりも、低層階級として生きることを強いられている人々がいるのは事実です。しかし、警官がその人差し指でトリガーを引くとき、最も問題になるのはやはり「色」なのではないでしょうか? ビヨンセ(Beyoncé)の父親がカラリズムについて発言するとき、また彼女がWolfordのタイツを穿いてステージに立つとき、彼らの関心事は「色」なのではないでしょうか? J・コール(J. Cole)が「俺の肌が白かったら、エミネム(Eminem)やアデル(Adele)のように売れるのかな?」とライムするとき、彼が意味するところは文字どおり「色」なのではないでしょうか?
 
僕はここで、どちらの問題がより重要かを議論したいのではありません。ただ、笑子が「優越意識と劣等感が犇(ひしめ)く世界」を切り拓くべく、ハアレムのニグロとして生きていくこととエンパイア・ステイト・ビルに登ることを決意するのを見届けた時、胸がすく思いがするのと同時に、昨年から世界的に注目を集めているレイシズムの問題が、それまでよりもずうっと大きく複雑で根深いものに感じられたのです。
 
 
 
 

参考