『世界と僕のあいだに』というタイトルで邦訳版も出ています。著者のタナハシ・コーツ(Ta-Nehisi Coates)氏が自身の息子に語りかける体裁で綴られたエッセイです。以下、箇条書きで所感を述べます。
 
 

 

 

  • 作中で"body"という単語が多用されている点は注目に値すると思います。米国の黒人を取り巻く問題が彼らに及ぼす影響が、文字どおり物理的・肉体的であることを、コーツ氏が同単語を用いるたびに読者にリマインドしているように思えてなりません。無神論者としても知られる彼はどこまでも現実主義的で、「現在の状況がどれだけ改善しているとしても、それが次世代のために犠牲になるという〈栄光〉を望まなかった人々への救済になると考えるのは間違いだ。我々の偉業はその埋め合わせにはなりえない」(抄訳)という言葉が深く沁みました。たしかにそのとおりだなという納得と、どことない(おそらくは自分のオプティミズムに由来する)居心地悪さとに挟まれて、そのページを読んでからしばしの間、その言葉を消化するのに時間を要しました。911後のニューヨークについて綴った箇所も同様です。ただ、一貫してペシミスティックななかで、パリでの経験に「俺はボルティモアに居た時から、ずっと〈生きて〉いたんだ」と気づかされる描写には、少しばかりの安心を覚えます。
 
  • ボルティモアのフッドで育ち、周囲の人々からソフトに接されることのなかったコーツ氏が、ハワード大で長いドレッドの女の子と出会った時のエピソードが興味深かったです。来客に応じる、キッチンで料理する、アディーナ・ハワード(Adina Howard)の曲で踊る、病人を介抱するといった、一つ一つの所作がどれも新鮮で、同じ黒人でも幅があることを痛感させられた、とありました。ズバリその記事は見つけられなかったのですが、ケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar)も何かのインタビューで、友人宅に遊びに行った際、テーブルに肘をつけずテレビもつけず食事する世界があるのかと驚いた、みたいなことを言っていた気がします。
 
  • コーツ氏が見知らぬ若い黒人男性とぶつかった際に交わした"My bad," "You straight"という会話。これはある世界への帰属意識を感じられる美しい瞬間であり、その時に覚えた安心感を人種に基づくものだとすることは、祖先が作り上げたものを略奪者たちに引き渡すことに他ならない、とコーツ氏は述べます。曰く「人種はレイシズム(人種主義)の子供であって、父ではない」(いつだったか、小沢健二さんが"racism"の訳語は「人種差別」でなく「人種主義」だと発言して一部の人々から批判を浴びていた記憶がありますが、僕は少なくともここでは「人種主義」が適当だと考えます)のであって、そのやりとりの中で生み出される安心感も、黒人という人種に生来備わっているものではなく、彼らが作り上げてきたものだからです。文化の盗用(cultural appropriation)の問題は線引きが難しく、僕自身、非黒人のブレイズやドレッドがNGなどとは思いませんが、少なくともこういう視座を知っておくことは必要かなと思います。
 
  • 多くの黒人が幼いうちからタフであることを求められる理由、息子に対してソフトに接することが難しい理由、格差が是正されず現在にまで及んでいる理由、どれだけの時間やお金を費やして育てられた子供も一瞬で命が奪われることの残酷さ—これらが、どんな史実を学ぶよりもずっと肉体的に感じられました。