ジェイ・Z(JAY-Z)の自伝的作品にして、楽曲のリリックを本人が解説した貴重な一冊。なぜこれほどの重要作が日本語で翻訳されていないのかと思ったら、写真の使用料が高いのだという情報を目にした。私のような無粋な人間は「せめて文字部分だけでもいいから…」などと思ってしまうのだが、どうにかならないものだろうか。

 
 
 
 

ジガの文体とストーリーテリング

Lock My Body, Can't Trap My Mind

文章を読む人間誰もが一般に慣れきっている論理展開というものがある。例えば「譲歩→逆接の接続詞→主張」というのがそれだ。自由英作文でテンプレートとして教わった方も多いであろう"It is true that ... but ~"である。本著はしばしばそれを裏切ってくる。"A but B"かと思いきや、AからゆるやかにBへ移行したり、突拍子もないタイミングで主張の反例が挙げられたり。これは何かに似ているな、と途中で気づく。そう、ジェイ・Zのリリックだ。このことには本人も"Ears Wide Open"の章で触れており、他のストーリーテラーのように直線的な思考をもって完結した物語を紡ぐのではなく、都度浮かんだ考えを繋げたり混ぜたりして詞にするのだと、自身のMCとしての立ち位置を明らかにしている。
 
あなたが歌詞の全てを把握してスッキリしたいタイプのリスナーならば、こうしたリリックをストレスフルに感じるかもしれない。また、本記事執筆時点で、ホヴの最新のヴァースは故ニプシー・ハッスル(Nipsey Hussle)との楽曲「What It Feels Like」において聴けるが、ここでも突拍子もないボースティング("Real ni**as is extinct, it ain't safe for me, my dawg")や皮肉めいた言い回し("I arrived on the day Fred Hampton got mur—, hol' up / Assassinated, just to clarify further")が、私を不快にこそさせなかったものの苦笑いさせたのも事実だ。しかし、彼の離散的な思考が半ば垂れ流しになったリリックはアソビを生み、緊張と緩和を演出するのに寄与している。そういえば、本著の映画『スカーフェイス』(原題:Scarface、1983年)に関する記述の中でも、論を展開するうえでは必ずしも必要ないであろう"I hope."の一文に、私はクスッと笑わされた。
 
ラップは矛盾を扱うように出来ている、とジェイは言う。それは多様なジャンルの音楽を下敷きにするサンプリングという手法と無関係でないし、意味上の繋がりが無くともライムが繋がりをもたらすのだ、と彼は述べる。そもそも人間というものが矛盾を抱えた存在であることに目を向けるならば、程度の差こそあれ誰もがチェーンを着けたチェ・ゲバラだ。こうした人間の本質を炙り出すのに、ラップはこのうえなく適したアート・フォームなのだと納得させられる。そして、そのアート・フォーム下でジガの文体が生まれる必然性にも気づかされる。
 

What More Can I Say?

リニアなストーリーを紡ぐのではないジェイ・Zだが、彼の文体が最も効力を発揮するのは、皮肉にも、ストーリーテリングの楽曲だと私は思う。本著で本人が歌詞を解説した楽曲たちのうち感銘を受けたものはいくつもあるが、特に「Meet the Parents」と「Regrets」では、その着眼点と構成力に唸らされた。
 
「Meet the Parents」はホヴァが公共広告的役割を担わせることを意図して作った数少ない曲の一つだというが、例えば登場人物のIsisがMikeに惚れ込む様子を描写するのに"She was so turned on that she had to shower twice"というラインが無かったら、はたして同曲が同じだけの説得力を有していたか疑わしい。また、後悔や恐れといった、一般に若い黒人男性が言葉にしづらい感情を表現するのには、やはりストーリーテリングほど適したフォーマットは無い。「Regrets」におけるディーテイルにとことん拘った語り口は、そのことを雄弁に物語っているかのようだ。
 
ライミングのためのライミングに走る優れたラッパーもいるが、ジェイ・Zは彼らにリスペクトを示しつつ、自分はその一人ではないと言い切る。パブリック・エネミー(Public Enemy)もN.W.Aも偉大なラップ・グループだが、ジェイの伝えるストーリーは、そのどちらのグループが伝えるものとも異なる。彼のストーリーは、ストリートでのハスリングに端を発するものだ。「Meet the Parents」も「Regrets」もその経験から生まれた。前者を生んだのは父親から譲り受けた観察眼であり、後者を生んだのは、ハスリングについて語るならば、目の前で命を落とした友人の夢から夜中に目覚める心情をも伝えるのが自分の役目だ、という彼の意識である。ジェイ一流の観察眼とリアルネスへのこだわりが、いかに彼をリリシストたらしめてきたかを再認識させられる。彼のコンペティティブネスも、時に過剰にさえ思えるキャピタリズムも、すべてそこにアトリビュートされる。ジガの文体に多少気に入らない部分があったとしても、何かを感じ取ろうとする意欲があるならば、彼のスピットする16小節から耳を背けることができない理由がそこにある。
 
 

言葉への愛と可能性への信頼

The Story of...

先述した「矛盾」の話ではないが、ライター/ブロガーでありながら、自分の言葉で作品や楽曲やアーティストについて語る行為に忌避感を覚えることがある。言葉は誰かを傷つける武器になりうるから、だけがその理由ではない。自分の解釈を入れずに誰かの言葉を伝える術を、私は引用以外に知らない。いや、引用とて、その文脈によっては本人の意図しない意味を付加しかねない。だからなのか、「評論家なんてクソだ」と吐き捨てるラッパーも少なくない。批評や解釈など介さずアーティストの言葉をただ全身で受け止めるべきだという考え方が、昨今では広まっているように感じる。自分の中の現代っ子な部分が、それに同調する。
 
それでも、自分の言葉で作品や楽曲やアーティストについて語ることを、きっと私はやめないと思う。それは、「ショーティーは超いい身体、パイナップル味に違いない」と歌うタイ・ダラ・サイン(Ty Dolla $ign)の美声を聴いて、パイナップルの香水を着けたAさんを思い出したことを、自分の内に留めておくのはもったいないと感じるからだ(参考)。ダベイビー(DaBaby)の「VIBEZ」を聴いて"blind"と"stick"と"fire"が近くに配されている理由を考える営みが、自分だけでなく多くの人にとって有意義だと信じるからだ。ポスト・マローン(Post Malone)の「Staring At The Sun」と「Sunflower」の関係を考察・指摘することが、似たような境遇にいる誰かにとって、一種の救いになることを願うからだ(参考)。
 
「99 Problems」で"Fuck critics, you can kiss my whole asshole"と言っているジェイ・Zは、やはり曲の裏にあるゴシップを詮索されることを好まない。しかし嬉しいことに、心を開いて細部に目を向ける聴き方・彼のリリックを自らに重ね合わせるような聴き方自体は大いに歓迎してくれているようだ。「Threat」を聴いて本当に誰かを脅してしまうよりは、進級がかかった数学IIの追試に向けて士気を高めるほうがいいだろうし、「December 4th」をショーン・カーターの逸話として楽しむだけでなく、「小さい頃のあんたは病弱で手の掛かる子だったよ」と笑う母親を思い出すきっかけにしてもいい。そういえば、タナハシ・コーツ(Ta-Nehisi Coates)も、ジェイがプレゼントした車で事故に遭い亡くなった甥=Colleekについて「Lost One」で語られるのを聴いて、ハワード大学時代の亡き友人=プリンスに車をプレゼントした彼の母に想いを馳せたことだろう。
 

Picture All the Possibilities

本著を通じて何よりも伝わってきたのは、ジェイ・Zの言葉への一貫した愛だ。それは「Ignorant Shit」における、およそ真面目には思えない"Ni**a, fuck, shit, ass, bitch, trick, plus ice, c'mon"というフックを口にしているときでさえ変わらないのだろうと思う。だから彼は検閲よりも対話を歓迎する。また、ジェイはジェイの言葉で自らのストーリーを伝えるが、世界には数えきれないほどのMCがいて、一人ひとりが自らを取り巻く世界を理解し、そこに意味を与えるのに言葉を使っている。頭に浮かべた言葉を、ある者は頭の中に留め、またある者は忘れないうちに紙に書き留め、また別の者はiPhoneのメモ帳にフリック入力している。
 
そして、そのたびに対話が生まれる。新しい可能性が生まれる。ジェイはこの可能性を誰よりも信じているようにみえる。言葉が誰かに新しい視点をもたらす可能性を信じ、実際にそれが実現することを何よりも喜ばしく思うようだ。「I Know」「Young G's」「Lost One」の3曲の解説を含む拡大版で、彼は子供たちの「初めて読み通せたのはこの本が初めて」というツイートに触れながら、こう綴っている。
 
この本が、子供たちが読書を始めたり、自らの声と経験を活かす方法について考え始めたりするきっかけ("gateway drug")として機能していると知れることが一番嬉しい。
 
『Decoded』も、同著で歌詞が解説されている楽曲たちも、必ず誰かにとって何かのきっかけになっているだろう。そして、その誰かも楽曲や対話を通じて、また別の誰かを動かす。世界中のMCたちの頭に言葉が浮かび続けるかぎり、この流れが止まることはない。
 
 
 
 

告知

ニプシー・ハッスルとジェイ・Zの「What It Feels Like」歌詞対訳・解説を洋楽ラップを10倍楽しむマガジンさんに寄稿いたしました!
 

 

 

そういえば、1月にもSZA「Good Days」の歌詞対訳・解説を寄稿したのですが、告知が漏れておりました。こちらもぜひお楽しみください!