どうも、あけおめです。今年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

黒人文学の名作『Invisible Man』を原書で読もうと2016年くらいにアマゾンで買ったのですが、いざ受け取ってみると、その厚さにおののいてしまい、しばらく開けずにいました。昨年(2021年)意を決して邦訳版を購入し読み始めましたが、それでも長かったし難しかったです…。あ、ちなみにこれもニプシー・ハッスル(Nipsey Hussle)推薦図書の一つです。

 

 

 

 

だいぶ間隔を空けながら読んでしまったがために、登場人物の設定などうろ覚えの部分も多く、読み直そうかなと思っています。ただ、上巻の後半あたりからぐっと迫力が増してきて面白かった印象です。特に印象に残ったシーンを以下に引用しますね。ネタバレが嫌な方はここでお閉じください。

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとかじりすると、昔食べたように甘くて熱いさつま芋だったので、僕はどっと込み上げてくる郷愁の思いに圧倒されてしまい、自制心を失うまいとしてその場を離れた。さつま芋をムシャムシャ食べながら、歩いていった。すると突然、強烈な解放感を味わった——それは単に、食べながら通りを歩いていたからであった。爽やかな気分だったのだ。誰に見られているとか、何が礼儀正しいいかなどと、もう気にしなくてもよかった。そんなことはクソ食らえだ。そう思うと、さつま芋は実に甘く、この解放感は御神酒(おみき)を飲んだ時のようだった。大学や郷里の知り合いが通りかかって今の僕を見つけてくれたらいいのだが。あいつらは肝を抜かしてしまうぞ! 

 

人種差別自体は残念ながら今も残る問題ですが、この小説の舞台である1930年代の米国におけるそれは、今のそれとはレベルが異なり、黒人が黒人らしく振る舞うこと自体が疎まれるような時代だったようです。そうした振る舞いを忌み嫌うのは白人だけでなく、主人公の「僕」のような知識層の黒人も同様でした。そうしたなか、ふとしたきっかけでさつま芋を食べた「僕」は、上述のとおり郷愁の念に駆られ、否応なしに自らのルーツを身体で感じることとなります。

 

 

まるでギブスを外したばかりで、また自由に動けることに慣れていない時みたいに、体中がかゆくなってきた。南部では誰もが僕のことを知っていたが、北部へ来ることは未知の世界へ飛び込むようなものだった。何日も幾晩も大都市の通りを歩いていて、顔見知りの人に出くわさないのではないか? 現に、僕は新たな自分になれた。そう思うと怖くなった。今では世界が目の前で流れてゆく気がしたからだ。すべての境界線が取り除かれた今では、自由とは必要性を認めるだけではなく、可能性を認めることでもあった。

 

とあるきっかけで「僕」の視界が一気に開けた、物語の転換点ともいえる場面です。タイトルの「見えない人間」の意味にもつながっていきます。

 

 

ふと、考えたことがあります。著者のラルフ・エリスンが本作を通じて描こうとしたのは、米国の黒人を取り巻く社会問題よりもむしろ、もっと普遍的で観念的な何かなのではないか、と。二項対立や勧善懲悪的な分かりやすい描写を意図的に避けているように感じましたし、他の黒人映画や文学、例えば『The Hate U Give』などではくっきり浮き彫りになるイデオロギー的な部分も、本作では最後までぼやけたままです。最終的な判断は保留しますが、いずれにしても何度か読み返したくなる作品です。実際に読み返すとなると、かなり骨の折れる作業になるわけですが…。大筋を確認するという意味では、松本昇氏の訳者あとがきにはかなり助けられました🙏 多謝!

 

 

たしか本作を読もうと思ったきっかけは、Wax Poetics誌のケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar)特集号で、彼が本作の登場人物と比較されながら論じられていたからなんですよね。その号も東京に戻ったら読み直してみようと思います。