巨人 ⑨ 病 | まつすぐな道でさみしい (改)

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1938年  馬場正平誕生(新潟県三条市)

1939年  第二次世界大戦開戦

1945年  第二次世界大戦終結

1955年 馬場正平 巨人軍入団

1958年 長嶋茂雄 巨人軍入団

1959年 王 貞治 巨人軍入団 

1959年 馬場正平 巨人軍退団 

1965年~73年 読売巨人軍V9






「ところで星くん、どこまで話は進んだんだっけ?」


『どこまで? って先輩、まだ巨人軍に入団して多摩川グランドで走り込みしてる所までしか進んでないですよ、先輩が余計な話ばかりするから! だいたい猪木信者特有の思い込みなんて言っちゃって、柳澤先生のファンだけじゃなく、アレ完全に猪木信者の方々も敵に回しちゃいましたよ! 』
 

「17歳の頃か?  前田日明がヤングライオンの頃を、ずっと終わらない修学旅行みたいな楽しい思い出だって言ってたけど、何のしがらみも無くただトレーニングに明け暮れるこの時期が馬場さんも一番幸せだったんじゃないかな? 

それから、ま~なんだろうな?  アントニオ猪木の影響だと思うけど、新日系の選手はやたらと他団体のレスラーをあいつらはろくに練習しね~とか批判する傾向に有るよな?  安生の自伝にも書いてたけど、UWFに別れちゃったら新日の連中はろくに練習もしね~でって批判しまくってたりとかな。」


『でも、そんなレスラー達のアクの強さとか、人間関係の対立構造をそのまんまリングに持ち込んじゃうストーリーラインが昭和プロレスの面白さでも有ったんじゃないですかね?  自分なんか最近の新日はどうも、スマート過ぎちゃって馴染めないんですけどね。』


「それに比べて、全日系の選手はあんまり他団体の事を批判しないだろ?  馬場さんが常識人だからな。昔さ、これはまだ三沢光晴が若手だった頃の話だけど、当時の新日はタイガーマスクブームで盛り上がってて、全日も対抗して大仁田厚をジュニアで売り出してたんだよ。その頃プロレス記者が三沢に、タイガー大仁田が対戦したらどっちが強いと思う?  って聞三沢は、
『そんなんやんなくたって分かるよ!  まったく相手にならね~って!  』('・c_,・` )プッ って答えちゃったらしくて、
てめえ~この野郎!  普通、自分ところの先輩が勝つって答えるもんだろう! って、大仁田をブチキレさせた。って話も有るくらいだな。」
(((*≧艸≦)ププッ


三沢さんい話でもするのかと思えば、これって他団体を批判するよりたちが悪いじゃないですか?  先輩、これでNOAHファンも敵に回しちゃいましたよ!  それにしても三沢選手正直過ぎますよね。』
(;゜0゜)


NOAHって言えばよ、馬場さんの練習嫌いって言われる要因の1つにウエイトトレーニングの話が有るよな?」


『若い頃の小橋選手が、あんまりウエイトやるなって馬場さんに止められてたって話ですね。』


「アレは裏話が有って、馬場さんは昔超マッチョな男達が路地裏でチューしてる所を目撃して、それ以来勘違いしちやったらしい。小橋が身体大きくして活躍するようになったらアレは、悪い事じゃなかったんって誤解が解けて、軽井沢の別荘で一緒にバーベル上げようって誘ってくれるようになった。って、棚橋に話してたな。」


『それって、先日扶桑社から発売された棚橋選手のフォトブック1/100 The one-hundredthの話ですね。』


「そうそう、流石に扶桑社だけ有って前半は棚橋のナルシスト全開のヌード写真とか、飯伏との恋愛話とか女子向きの内容だったけど、小橋と棚橋の新旧筋肉バカ対談は笑えたよ。多分馬場さんは必死にウエイトやってる小橋を見て、そんな筋肉着けたらオカマになっちやうよ~って心配して、もうやめろ~って必死に止めてたんだろうな?  ロード・ウォリアーズなんて、馬場さんホークとアニマルのゲイカップルだと思ってたんじゃね~か?  マネージャーのポール・エラリングなんて、ちょっとゲイっぽい雰囲気醸し出してたしな。」
((ノ∀`)・゚・。 アヒャヒャヒャヒャ


『棚橋選手のヌード写真集を手にニヤニヤしてる中年のオッサンって・・・僕にはもう、先輩がゲイなんじゃないか?  としか思えないですよ。』









「そろそろ馬場正平投手の話を進めようか。また長くなっちゃうから、ここはポイントを掻い摘まんで話をしよう。」


馬場正平投手の1軍での登板機会は、入団3年目1957年のたったの3回。その3回もリーグ優勝の決まった後の消化試合や敗戦処理だけ。 

この頃の馬場正平投手といえば二軍とはいえ、入団2年目の1956年12勝1敗、3年目1957年は13勝2敗と優秀な戦績で、2年連続二軍最優秀投手に選ばれているのだが、巨人軍での馬場投手の扱いを1964年のジャイアント馬場にはこのように書かれている。

「投手馬場正平は、常に自分の100パーセントを出して真剣に投げていた。しかし、2メートルの大巨人が投げるだけで観客は沸き、馬場の意志とはまったく別のところで、真剣勝負たるプロ野球に“ショー見世物”という雰囲気が漂う。さらに異形の大巨人がひとたびマウンドに上がれば、観客の視線はスター選手の頭上を通り越して、馬場に集中してしまう。
それらを嫌う人間が、コーチや先輩に多かったのである。
長く多摩川合宿所の寮長を務めた武宮敏明は『馬場は巨人時代、背が高いことで損ばかりしとった』と回想している。
繊細な神経の持ち主が、自分を排除しようとする人々の視線に気づかなかったはずはない。ただ馬場は認めたくなかった。子供の頃から憧れていた読売巨人軍が、完全なる実力社会ではなく、人間を差別する嫉妬深い人々の集団であったことを」





『でも先輩、プロ野球は結果がすべて!  いくら差別や嫉妬が存在したとしても、結果さえ残せば認められるんじゃ無いんすか?』


「確かに馬場投手は一軍で活躍するだけの実力を擁していたのかも知れない。しかし、マウンドに立つ馬場投手に対する観客の反応といえば、巨人軍で巨人がピッチャーなんて、こりゃまた滑稽だね。  でもプロ野球はショーなんだから、このくらいの演出が無きゃいけね~やな!  と、戦績以前に、その存在感に注目が集まってしまう事も確かだったんだよ。」




実際、当時の馬場投手は二軍選手ながらその人気は絶大で、1958年に馬場投手は肘の軟骨除去手術を行っているのだが、毎年夏前に行われている二軍の北海道遠征を「馬場が投げられないのは、ファンに申し訳ない。」と、この年は馬場投手の回復を待って遠征のスケジュールを延期したほどだったらしい。






「戦後の野球人気でプロ野球も観客を動員して人気を博してはいたんだけどね。戦前のアマチュア野球人気の中、「野球で金を稼ぐなど、けしからん」なんて言われながら、ガラガラのスタンドでプレーして来た球団幹部達にとって、馬場投手の勝敗を度外視した存在感。馬場正平の存在そのものがタブーだったのかも知れないね。」


「そして唯一馬場投手か一軍で登板した1957年には、もうひとつ人生を左右する大きな出来事が起こっているんだ。」



1957年一軍選手が日本シリーズで三原脩監督率いる西鉄に大敗を期している頃、正平は視力の急激な低下に見舞われオフに入った頃の正平には、5メートル先の人が誰であるか判別出来ないほどになっていた。診察の結果、「脳腫瘍」(下垂体腺腫視神経圧迫)と判断され、同年12月23日に東京大学医学部附属病院で正平は開頭手術を受ける事になる。当時の医療技術では成功率が非常に低く、医者から「失明する可能性が高いので、見えているうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められる程だったが、手術は無事成功し1週間で退院した正平は、翌月には頭に包帯を巻いたままキャンプに復帰している。これは病院側でも、「1週間で回復するなど、考えられない」と不思議がる程の奇跡的な回復力だった。


1964年のジャイアント馬場には、小学生時代からの急激な成長はこの脳腫瘍の影響で、成長ホルモンを過剰分泌される巨人症が原因であって、本来短命である巨人症のG馬場が61年の生涯をまっとう出来たのは、この腫瘍摘出のお陰だった。と書かれているが、その特異な体型からG馬場が巨人症だった事に疑う余地はない。



前年一軍登板を果たし、いよいよ念願の一軍定着と期待した矢先の脳腫瘍手術。1958年のキャンプは、病み上がりの状態で始まり、レギュラーシーズンに入っても全力投球ができないまま二軍生活に明け暮れた正平だったが、それでも二軍での実力は桁違いで10連勝を飾り、3年連続で最優秀投手に選出される。

しかし、そんな正平の元に1959年も一軍から声が掛かる事はなく、事もあろうに正平が肩の痛みを訴えたとたん、球団は待ってましたとばかりにシーズン途中の8月で戦力外通告を伝える。


いくら努力しても、結果を残しても、この5年間巨人軍は正平を正当に評価しようとはしなかった。月収こそ入団時の1万2000円から徐々に上がり5万円にはなっていたが、最後まで一軍での華々しい活躍の舞台を用意される事はなった。


後年G馬場は、巨人軍でチャンスを得られなかった理由を、同郷の先輩がなく、コーチや監督に付け届けやご機嫌とりが苦手で巧く取り入る事が出来なかった。などと語っているが、本当の理由がそんな事では無い事は、正平自身が一番分かっていた。




雪深い田舎町。

小さな小さなコミュニティの中で、体の大きくなり過ぎた正平はずっとはみ出し者だった。

そんな正平の唯一の心の拠り所。

どんなに特異な目で見られようが、野球で結果を残せば回りの人間は自分を評価してくれた。

しかし、子供の頃からずっと憧れた巨人軍での正平は・・・



もし、朝起きて体が小さくなっていたら、どんなに幸せだろう




失意の正平に救いの手を差し伸べたのは、馬場が入団したときから励ましてくれていたヘッドコーチの谷口五郎だった。

1960年西鉄から移籍する三原監督と共に大洋入りが決まっていた谷口コーチは、三原監督ならば正当に評価してくれる。一緒に大洋ホエールズで出直そうと誘ってくれた。

大洋ホエールズの明石キャンプにテスト生として参加し、採用内定を受けていた正平だったが、ここであの有名な惨劇が正平の未来に立ち塞がる事となる。




大洋ホエールズ入団が決定し、ホッと一息、そんな気のゆるみもあったのかもしれない。ある休みの日、馬場は宿舎の旅館でノンビリと朝風呂に入っていた。女中さんが、「食事にしますか、風呂にしますか」と聞くから、「練習のない日くらい、朝風呂にでも入るか」とあまりやりつけないことをしたのが、運命の岐れ路だった。



空腹でたっぷりと湯につかった正平は、湯舟から上がったとたんにめまいがし、ガラスにひっくり返った。左ひじが切れ、タイルがアッと言う間に朱に染まっていた。救急車に運ばれ、体がだるくなって目をつぶりかけると、救急隊員に「眠っちゃダメだ!」とほほを叩かれた。湯上がりだから、かなりの大量出血だったらしい。病院で傷口を縫い合わせ、なんとか1週間で傷はふさがったのだが、左ひじの筋が切れてしまった左手は、中指と薬指が掌についたまま伸びなくなっており、回復の見通しもはっきりしない。グローブを握る事も出来ない状態の正平は、もうプロ野球はあきらめるしかなかった。


結局ホエールズに入団は叶わなかったが、この怪我さえなければ1960年三原監督のもと、優勝メンバーに馬場正平の名が刻まれていたのかも知れない。



度重なる悲運に苛まれ、プロ野球の道を断念し戦後最大のスーパースターの元を訪れる決意をする正平だが、実はこの頃、回復の見込みが無いと言われた左手はあっけなく完治していた。




「これがもう1カ月早かったら、私は野球をあきらめ切れなかったと思う。だがプロ野球の公式戦はすでに開幕していた。私はプロレスラーたるべく運命づけられていたのかもしれない」