巨人  ⑧ 第54話「ゆけ、多摩川グランド」 | まつすぐな道でさみしい (改)

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1938年  馬場正平誕生(新潟県三条市)

1939年  第二次世界大戦開戦

1945年  第二次世界大戦終結

1955年 馬場正平 巨人軍入団

1958年 長嶋茂雄 巨人軍入団

1959年 王 貞治 巨人軍入団 

1965年~73年 読売巨人軍V9






「星くん、もし体格だけで通用するのなら過去に凄い人がいたよ、君もしってるだろう、あの十六文キックで有名なプロレスの」




『ジャイアント馬場?』







「そう身長2メートル9センチ 体重145キロの恵まれた体で世界のプロレスリングを征服した男だ。」





「彼もピッチャーとして5年間この合宿所にいた。その間 公式戦には3試合、7イニングス投げて、打たれた安打5本、奪った三振3、失点1で 防御率1.28といい成績を残した。が結局はその恵まれた体を巨人軍投手としては生かしきれずに負けていった。大巨人軍の野球はそれほど厳しいんだよ。」





『でも、大内山先輩! 確かにいい成績ですが、5年間も居てたった3試合しか投げてね~ってのも逆に凄くね~ッスか?』





「星くん、ちょっとしゃべり方がおかしくなっていないか?  まあいい、前回王選手のコメントで、1軍の選手とは宿舎が別々なので・・・と有ったように、馬場正平投手は巨人軍での生活の大半をこの2軍宿舎で送り、1軍での登板チャンスはたったの3回。その3回もリーグ優勝の決まった後の消化試合や敗戦処理だけだったんだよ。しかし、それが馬場投手の実力が正当に評価された物とは、僕には思えないんだよな?」


大内山先輩の言う正当な評価とは? ここで馬場正平のこれまでの経歴を簡単に振り返って見よう。






リヤカー
1938年 新潟県三条市、青果業を営んでいた父一雄と母ミツとの間に次男として生まれ正平は平均よりだいぶ小さい赤ん坊で、四日町少学校に入学した時は新入生の中で一番小さく、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたという。


そんな彼の体に変化が訪れたのは3年生の頃、急速に大きくなりはじめた身体は小学5年生の頃には既に身長が175cmほどになり、正平は地元の少年野球団でエースを務める傍ら家業を手伝うようになっていた。



毎朝5時に起き、学校に行く前に果物が満載されたリヤカーを(雪の日にはソリに乗せ)、加茂、見附、長岡と、自宅から20キロも離れた朝市に引いて行くのが日課となっていた。正平は巨人に入団するまでの7年間リヤカーを引き続け、投手として必要な強靭な足腰を得る事となる。


三条市立第一中学校時代には、チームを引っ張り中越地区大会で優勝を果たすと共に野球部だけでなく、卓球でも中越地区大会で個人優勝という実積を挙げている事からも、正平はその巨体だけでなく優れた反射神経を兼ね備えていた事が伺える。





絵筆
これは以前にお話しているが、
(参照➡靴下 vol.3 ~Present~)

1953年 春  高校に入学した正平は、美術室の片隅で静かに絵を描いていた。グランドで声を張り上げ、練習に励む野球部員を横目に、ひたすら絵筆を走らせている。

シューズがないから入部出来ませんとは、シャクでシャクでとても言えたものではない。

三条実業高校に入学し、念願の硬式野球が出来ると思っていた正平だが、成長の止まらないその身体は高校入学時には190cmを越え、あまりにも大きくなり過ぎた身体は、その足に合うスパイクが無くなっていた。


長男を戦争で亡くし、病弱な父に代わり二人の姉と青果業を切り盛りする母の元で、小学生の頃からリヤカーを引いていた正平の口から、『特注のスパイクを買ってくれ』という言葉を発する事は出来なかった当然、優れたアスリートとして中学時代から注目を集める正平の元には野球部だけではなく、バスケットボール部などからも熱心な勧誘が寄せられるのだが、正平の口から出た言葉は、『もうスポーツはやめて、絵に専念したい』というものだった。







母の想い
1954年 夏  甲子園新潟県予選のマウンドに2年生エース正平の姿が有った。

2年生の春、正平は野球部の顧問よりスパイクを手渡されていた。これは地元の名士による援助との事だったが、恐らくこれは、気を使わせまいと母ミツが正平の為に業者に特注で作らせたスパイクを野球部の顧問に渡したものと思われる。


念願の硬式野球部に入部した正平は早速エースで四番に向かえられ、練習試合ながらも18奪三振などの活躍で、地元新潟日報に「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」と報じられ、夏の甲子園予選では優勝候補の一角と目される存在になっていた




結果は、一回戦で負けました。

最後の9回の裏、ツーアウト、ランナーがサードにいましてね、セカンド・ゴロで、セカンドがハンブルして、一塁に投げたんですけどね、ま、僕は、間に合ったと思ってるんですけどセーフになりましてね、1対0で負けましたね。

どう見てもアウトだと思ったんすが、校長先生が見てましてね、「抗議はしてはいけません」と言われて、それで終わりでした。

やっぱり、ヘタだから、負けたんでしょうね。

1954年夏  甲子園 新潟県予選大会1回戦敗退。こうして正平の甲子園への夢は幕を閉じた。

しかし、正平の家に巨人の源川 英治スカウトが訪れる。仕度金20万円、初任給1万2千円で巨人に入団しないかという勧誘だった。

少年時代から憧れ、ファンクラブのバッジを宝物のようにしていた巨人軍の誘いに、当然断る理由などはない。高校を中退した正平は、翌1955年1月にジャイアンツに入団。背番号59(剛球)を背負った正平は、新潟県が生んだプロ野球選手第一号として多摩川グランドに立っていた。

大きくなり過ぎた身体に野球部入部を諦めた息子。息子に好きな事をやらせてやりたいとの一心で母が工面した一足のスパイクが、正平を多摩川グランドに導いてくれた。



監督水原茂の「若手は二軍でスタートし、基礎作り」という方針から正平は二軍に入れられ、ただ体が大きいという理由だけで、「足腰が弱いだろう」と決めつけられ、ひたすら走らされた。だが小学5年生の時から7年間、重いリヤカーを引いて来た馬場には一向に苦にならない。それどころか巨人のユニホームを着て、ピッタリと足に合ったスパイクをはいて走ることは楽しくさえあったといい、後年G馬場は、この時期の多摩川グランドでの走り込みが、長い現役生活の支えとなったと語っている。



1964年のジャイアント馬場の著者である柳澤 健氏もそうだが、G馬場は練習嫌いだったと言われる事が多い。しかし、私は決してそうだとは思わない。

恐らくこれは、アントニオ猪木の馬場批判の中での、練習しない人間は馬場に付いて全日に移籍したという話からくる、猪木信者特有の思い込みだと思うが、大型レスラーは自身の体重に膝が耐えられなくなると言われる中、G馬場があれだけの巨体で60歳を過ぎまでリングに上がり続けられたのは、たゆまぬトレーニングが有ったからこそだと思う。

そして何より、その大きさゆえにグランドに立つことすら許されなかった馬場正平は、誰よりも練習の、練習が出来る事の喜びを知っている人物ではなかっただろうか?






「星くん、また話が長くなってしまったので、今日はこの辺で終わりにしよう」


『えっ?  でも先輩、まだ馬場が巨人軍に入団したところまでしか行ってないですよ! だいたい ❮1964年のジャイアント馬場❯ を元にG馬場の全盛期を検証するって言っといて六大学野球とか、あの本とまったく関係ない話ばかりじゃないですか?』


「ま~その辺はアレだ、最初にまったく別の話になっちまうかも知れないから、興味の有る人は本を買って読んくれ! って断っているし、だいたい大筋で合ってるから大丈夫だろ?  最後にジャケ写でも貼っとけばそれらしく見えるんじゃないの?」


『先輩がそんないい加減な事ばっかり言ってるから、いつまで経っても話が進まないんですよ! 適当な事ばっかり言って、柳澤先生のファンの人が読んだら怒っちゃいますよ!』


「ああ? 俺は前から言ってるぞ! 遠慮なんかするこたぁ~ねえって! リングの上は戦いなんだからよ! 先輩も後輩もねえ! 遠慮されたら困るよお前! 何で遠慮するんだお前!」



『いつになったら、プロレスの話になるんですか?  もう何年続くんですか? 何年これが!』



「待て待て! 待て!」



             ❰つづく❱