この世の中で唯一、「絶対」なもの | 毎日をちょっぴり生きやすくするあべもん(安部源生)のブログ

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作業療法士という生活を支える仕事をしています。講演会を全国10ヵ所以上でやっています。内容はセラピスト向けぁと筋膜、東洋医学、心理学。一般向けだとストレスケア、コミュニケーション など

皆さん、こんばんは!

OOOなセラピスト、
(Occupational therapy(作業療法)
×Oriental medicine(東洋医学)
×Oita(大分))

Oriental Physio Academy(OPA)
大分県支部長の
安部源生(あべもとき)です。

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(4月にNBT協会主催で
エネルギーについて
大分でセミナーを行います。
詳細が出ればお伝えします!)


(セミナーまでの予習もかねてます。
何回かに分けて書きますが、
流れがまとまらないかもです_(._.)_)



この世に絶対なものはない
とよく言います。


今現在、言われている理論も
科学が進歩すれば
否定される可能性もあるわけですし。
早期離床も70年前は否定されていました。

エビデンスの考え方参考)


科学とは
根拠を見つけ、
それを疑う学問です

時には目の前にある物質でさえ
本当にそこにあるのか
を疑います。


例えば、

自分がいる部屋は本当に存在するのか?
目の前の机は?
目を閉じれば見えなくなるから
実はそこにはないかもしれない。
視覚は脳が処理した情報に過ぎないので、
脳が勘違いしている可能性もゼロではない。

そもそも、自分自身が本当に存在しているのか?


この問いの答えを見つけたのが、
フランスの哲学者、
ルネ・デカルトでした。


Wikipediaより

当時は
中世から近代への転換期であり、
科学が飛躍的に進歩した時代でした。

科学は根拠を求め、
疑い続ける存在です。

神のように
絶対的に疑うことのできないものがなければ、
その根拠すら揺らぐ
という問題がおきました。

それまでの時代は
神が唯一絶対のものでした。
神を否定するなら、
それに変わる
唯一絶対のものが必要だった
のです。


デカルトは部屋に閉じこもり、
目の前の世界、
ひいては
自分自身の存在さえ疑いました

やがて、
デカルトは
1つの答えにたどり着きます。

有名な
我思う、ゆえに我あり
という言葉です。

自分を疑う(考える)ことができるから
確かにここに存在している、
自分自身の意識だけは決して疑うことができない
というような意味です。

これは、
もの=体が重要なのではなく、
意識=心、魂が重要という考え方
に発展していきます。

デカルト的にいうなら
目の前の患者さんの
みた状態が本当にあるかは
分からないわけです。

自分自身の手も本当に
そこにあるかも
分からないわけです。

ただ、
自分自身の意識だけは
確実にそこにあります

不確かなもの=体にアプローチするなら
確実にあるであろう意識=心、魂
にアプローチしよう
という考え方にもなるんですかね?
意識や目に見えないアプローチの重要性も
そこにある気がします。


最後までお読み頂きありがとうございました!
これからもよろしくお願いいたします!
お体に気を付けてお過ごしください!