今日も私のブログをお読みくださり、ありがとうございます♪
感謝します。
さて、本日は、昨日の続きのお話をいたします。
なぜ、私の父はハーフなのか??
はい、父は、インドネシアのジャワ島という島の東部ジャワ・マラン(Malang) で生まれ育ったんですが、
父の母(私からするとおばあちゃん)はジャワの人で、父の父(私からするとおじいちゃん)は、日本人だったのです。
おじいちゃんは、日本の愛知県・田原市というところで生まれ育ったみたいなんですが、
そのおじいちゃんが、○十年前に、インドネシアに渡り(途中他の国も通ったみたいですが、詳しく分からないので省きます)、そこで、確かですが、飛行機の整備士みたいなことをしていたんだったそうな。(私が小さい時に何度も父は話してくれていたんですが、間違っていたらごめんね、Papa 🤣)
そして、おじいちゃんがインドネシアに行っている最中に、戦争になっちゃって、おじいちゃんもインドネシア人と一緒に戦った一人だったんです。
その当時のインドネシアは、350年間、オランダの植民地だったんですが、7−8世代ほどもずっとその状態だったので、その当時のインドネシア人は、それが当たり前すぎて、普通にすら感じていたんですね。
インドネシアは、自然豊かで、作物に恵まれていたので(今でもそうですが)、耕していたサトウキビや、タバコや、お茶などのほとんどを、オランダ人に渡し、インドネシア人自体は、平和だけど、豊かになれない生活をずっとしてきたんですね。その代わりオランダにも守られるから、それでいいか、って諦めていたというか、問題にも感じてなかったんですね。
そんな中、ある時、オランダの支配から外れた時があって、その時に日本人が入ってきて、
「私たちは、アジアの兄である日本だ。私たち有色人種も、自由に生きて、独立した国になる権利があるんだよ。君たちにもできるんだよ。」ということを伝えに来たんですね。
その時、インドネシア人(まだその当時は国としてはできていなくて、38種類の文化も言語も違う地域だったんですが)はポカーンと最初は意味が分からなくて。
だけど徐々に理解していって、アジアの兄である日本人が来てくれて喜んだんですね。
そして約3年半で、インドネシアを国として独立させるお手伝い・サポートを日本がしたわけなんです。
話は戻りますが、私のおじいちゃんは、その時に来ていた日本人の一人だったんです。
日本で、こんな話をすると、ほとんどの方が「へええ???そうだったの??そんな歴史があったなんて、知らなかった」とか、「そういうこと、日本の学校の授業では一度も聞いたことなかった」とか、「たまに日本人がそういう話を聞いたことがあるけれど、本当かなあ、とあまり信じられなかったけど、あなたが話すと、本当にそうだったんだと感じるわ!嬉しい!」など、
驚いていました。
その反応に、逆に、私が驚いたんですがね、笑。🤣🤣🤣
そして、私のおじいちゃんは、64歳で亡くなった時に、東部ジャワで、英雄として祭られ、インドネシアの元大統領(初大統領)であるスカルノ大統領と同じ英雄墓地で、埋められることになったんですね。日本では全く知られていないとは思いますが。
そう、スカルノ大統領とは、日本でもインドネシアでも有名な あのデヴィ・スカルノ夫人の旦那様にあたる方です。(その当時、スカルノ大統領は5人くらい奥さんがいたんですが、確かデヴィ夫人は4番目の奥様だったと思います)
さて、今度は、なぜ、私のおじいちゃんは、インドネシアに行った後、そのまま、亡くなるまで、インドネシアに居続けたんでしょう?
それについては、また明日、お話していきますね(^-^)
今日は、ここまで読んでくださり、ありがとうございました💗
愛を込めて、
世界は広い!世界は一つ!
ディーナ🌺キャサリン