1秒1秒が重なるたびに怖かったのを覚えています。
このままではダメだというのはわかっているけれど、僕のような小さなことでさえも…身体の中の命の危機というのは恐ろしいものです。
最初の1日は重力のない時間でした。
過ぎているのに変わらない、取り返しのつかないことが迫っているのに実感の湧かない不気味さ。
受け止めたつもりでぶらさがったままの自分の病気。
2日目は実感を少し持ちます。
病院で目が覚めて、病院食を食べる。
そのプロセスが「あぁ自分は『病人』なんだな」と思わせるからです。
身体になにもなくても心は死んでいくように、恐怖とともに過ごすということはそれだけで心の大切な部分を刺激していきます。
抗がん剤が迫るあのときの感覚。
誰にも心配をかけないように笑いながらも瞳の奥深くの自分が『どうして僕なんだ』と仕切りに嘆いていた。
今になっておもえばあの感情を表に出すのは確かにいけなかったけれど、あの想いを否定してもいけなかったのでしょう。
だってこんなことは明らかに理不尽で、自分はここまで罰せられるようなことなんてしていないのだから。
心が死ぬ前に泣いてしまうこと、泣いて泣いてそれでも泣いて…。
それこそが病と付けられた人の入院生活。
少なくとも僕は泣くことに関しては誰より積み重ねました。
彼の脳腫瘍の手術、それに関しては僕は心配していません。
きっと治るだろうという数多の祈りは届くと信じているから。
僕のお願いとしてはどうか泣き出してしまっても、彼を「可哀想」にしないでほしいということです。
それは本当に惨めで嫌なぬめりです。
涙を流すこと、表情を殺すこと、1秒を刻むこと。
その一つ一つがこの世界の誰も掴めない戦いなのです。
「可哀想」なんかじゃない「今この子は戦ってるんだ」とどこかにメモを貼ってあげてください。
僕はその終わりを確信しています。
戦いの後は笑顔でいなくては、それが闘争の常でしょう。
この戦いはハッピーエンドで終わる。
そのために、祈ることを忘れない。