「忘れ去られた都」へ、そして逃亡(トルクメニスタン2) | ユーラシア大陸自転車横断記 2015〜2016

ユーラシア大陸自転車横断記 2015〜2016

社会科教員を目指している大学生です、自転車でポルトガルから東京にある大学まで帰ります!

ということで、前回砂漠で立ち往生し、通りかかった車に助けられ、九死に一生を得たわけですが、足は怪我しているわ、街を戻ったせいでビザの有効期限5日が迫ってきているわ、で大変な状態なので、とりあえず列車を使ってトルクメニスタンを脱出することにしました



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列車の中にて、仲良くなった人達


トルクメニスタンは閉鎖的な国で、滞在のためのvisaの取得が世界最難関と言われています。
よって海外旅行者も少ないらしく、外国人である僕に周りは皆興味深々でした


しかし、もちろん英語は全く通じないので、ボディランゲージや表情を最大限に駆使してコミュニュケーションをとる、そうしなければ伝わりません


この旅にでて、わかったことが、自分が日本にいる時、いかに表情や身振り手振りなどの非言語的なコミュニュケーションを軽視し、疎かにしていたということでした


日本にいれば共通語は日本語、その当たり前の前提認識が、いつのまにか僕コミュニュケーションを「言葉」だけに頼るものに成らせしめ、表現の幅を狭める結果をもたらしました


それが結局、去年の教育実習の時に経験した、言葉とは裏腹にすぐ表情に出る、
という指摘に繋がってしまったのかもしれません

会話の最中、言葉に頼り、表情とかその他のことを考慮しない、この自分の傾向は教員になる前に一度、見直さなければいでしょう



話が脱線しましたが、その後、列車の中で仲良くなったトルクメニスタンのおじさんが、家に招待してくれることになりお邪魔させていただくことになりました






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家で夕食をいただきました


イランでもそうでしたが、トルクメニスタンでも食事は床の絨毯の上で行うみたいです

久しぶりの緑茶にびっくりしました。
ずっと紅茶圏を走っていたのですが、これも緑茶を飲む文化がある中国に近づいてきたという表れなのでしょうか


料理はラム肉のスープ、そしてパンです


イランからこの後に続くウズベキスタン、カザフスタンまでの中東から中央アジアにかけて、料理に使われる肉といったら基本ヤギや羊肉のラムかマトンでした


多分、この地域はイスラム教国が主なので豚肉が教義により食べられず、また中東から中央アジアにかけては乾燥地帯が続き、牧畜に大量の牧草を必要とする牛よりも、羊、ヤギなどが好まれるからなのでしょうか


僕はマトンが苦手なので結構つらかったです...






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子供達も外国人の僕が珍しいせいか、終始僕に興味深々でした






次の日、足が前日よりもましになったので、次の駅がある街まで走ってみることにしました



地図を調べてみると、その街の外れに世界遺産があるみたいです


その遺跡の名前はメルヴ、カラクム砂漠の真ん中に位置し、かつてシルクロードの中でオアシス都市として栄えた中央アジア最大の遺跡らしいです。




その遺跡の一角には「アラビアンナイト」として有名な『千夜一夜物語』の舞台となった場所があるとか。これは行くしかないので向かいます







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トルクメニスタンでは綿花畑をよくみかけます、調べてみると主な農業生産品はやはり綿


綿花栽培は、高温多湿な気候と乾燥する時期が必要、と自分の記憶ではあったのですが、ここトルクメニスタンはほぼ年間を通して降雨が少ない乾燥地帯、ここまで綿花栽培が進んでいるのはなぜでしょうか


気になって調べてみると、実はこの地域で綿花栽培が発展した背景には、遠く離れた地、アメリカで起こった南北戦争が原因となっていたみたいでした。


19世紀の前半、産業革命の進展により、綿織物の原料となる綿花の栽培は急務となり、インドや西インド諸島、南アメリカといった綿花の栽培に適した土地は、綿花の生産地として名を馳すようになりました


ここトルクメニスタン一帯を支配においていた当時のロシアは、西インド諸島やインドはイギリスに抑えられているため、綿花の輸入先を主に南部のアメリカに頼っていたのです


しかし、1861年に起きたアメリカの南北戦争により海外への綿花輸出が激減、アメリカからの綿花の流入が途絶えた当時のロシアは、生産地性はあまり見込めない気候でありながらも、栽培が可能なこのトルクメニスタン(+ウズベキスタン)の地域に目をつけ、大規模な栽培が開始されたらしいのでした。
(ちなみに、イギリスの場合は対策としてエジプトでの綿花栽培を進めました→後のエジプトの保護国化に繋がる)


その期間で培われた栽培のノウハウ、そして現在に至るまでの灌漑施設の整備化により、現在に至るまで、条件が悪いながらも綿花栽培が主要生産物として根付いてきたみたいです



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一応街に着きました。
この門をくぐった後、街の外れの砂漠を少し走った、10kmぐらいのところに世界遺産があるみたいです






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道を走ると、遠くに砂の都が見えてきました。あれがメルヴ遺跡でしょうか




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多分これが都市の外郭を囲んでいる城壁みたいなものなのでしょうか、今は原型を留めるのみになっています


それにしても世界遺産なのに、トルクメニスタンは観光客がいないこともあり、砂漠の中にある巨大な遺跡の中に僕一人しかいません


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推定では当時、最大で約100万人の人口(神奈川県民より少し多いくらい)が居住し、栄華を極めたオアシス都市メルヴ


13世紀初頭にチンギス・ハーンの要求を拒否した報復に、モンゴル帝国の騎馬隊がこの都市を強襲し、100万人を超える住民はほぼ皆殺しにされたらしいです


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その後、メルヴの街は荒廃し、二度と復興することはなかったようです


過去に栄華を誇った街も、現在は風化した建物、外壁が残るのみ



広大な砂漠の遺跡、敷地の中で一人佇むと、破壊され、忘れ去られたこの巨大な都市の哀愁を肌に感じ、なんだか切ない気持ちになりました






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城壁外の少し離れたところに自転車で向かったところにあった遺跡オオキズカラ(乙女の城)


『千夜一夜物語』は王様に対して妃が様々な国の説話(アラジンやシンドバッド)を説いたという形式をとっていますが、その
場所がここなのだとか


この宮殿は王のハーレムとして使われていたらしく、そのような用途から以上のような伝説が生まれたのかもしれません



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これもメルブ遺跡の城壁外にあったスルタン・サンジャール廟


セルジューク朝時代の最盛期の王の霊廟で、チンギスハーンの軍隊の襲撃やその後の地震にも耐え、シルクロードを旅するキャラバンにとっては街の目印として機能していたみたいです






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遺跡も巡り満足したところで、列車に乗り込みます








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列車の中ではまた、同席した人たちに興味深々に話しかけられまくりました(もちろん英語は全く通じない)


多分、全く言葉が通じないのに、その国の言葉でしゃべり続けられるのは初めてでした。それくらいトルクメニスタンの人は気さくということでしょうか


「日本に帰ったら絶対連絡して!」って電話番号のメモをさせられます、言葉が全ての電話でどうやってコミュニュケーションをとるかわかりませんが





列車を使いウズベキスタンの国境近くの街で降りたが、時刻はもう夜の10時をまわっていました


駅から外に出ると、トルクメニスタン南部からは考えられないくらい気温が寒い、10度以下くらい




テント泊はつらいな..と思い、駅にいた少年に近くに宿はないか聞くと、連れていってもらえることに



しかし、ハプニング発生



トルクメニスタンの警察に少年が絡まれる




警察「お前、外国人に何絡んでるんだ?」


警察は少年にそんなことを言っているようでした



トルクメニスタン は独裁国家、閉鎖的なお国柄ゆえか、一般市民が旅行者などの外国人と必要以上に関わることは場合によって、罰せられる対象になるとか(警察に見つかればだが)


また独裁国家ゆえ警察権力が非常に強く、警察は市民に対してものすごい高圧的な態度をとります


少年は「ただ宿に案内するだけだよっ」と必死に抵抗している



しかし、警察はものすごく冷めた表情で、許さんとばかりに少年の腕を後ろに捻りあげる


少年は痛みで悲鳴をあげながらも抵抗するが、体格の良い警官には敵わず、今度は警官が警棒を取り上げ、少年を叩きつけようとしました



さすがに僕もまずい事態に陥ったと思い、警察と少年の間に割って入ろうとする



半ば揉み合いのような状況になっている中、騒動を見た周りの通行人たちが集まってきた



とりあえずひたすら謝りながら、周囲の人の協力で、少年を離すことができたが、警察は無線で応援を呼んでいるようでした



早くここから逃げないとまずいことになる...



ここは「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれるトルクメニスタン、警察に絡まれたら何をされるかわからない


通行人たちは僕たちのやり取りを見ていたらしく、少年に変わって警察に弁解してくれているようでした


しかし、警察の怒りは収まっていない様子


騒ぎが大きくなるにつれ、野次馬含め人だかりができる中、傍にいたおじさんが「今のうちに逃げろ」と合図を送ってくれ、僕はその少年と一緒に逃げ出しました



警察が通行人の人たちの弁解を聞いてるうち、警察の増援が来る前に早く遠くに行かなければ



凍えるように感じた寒さも忘れ、僕と少年は無我夢中に夜の街を走りました



人気のない街の郊外まで二人で走り、とりあえず警察の手からは逃れられたと思い、ほっと胸をなでおろす



ただ、問題はこれからどこにテントを張るかということ



このままどこかにテントを張って、もし警察に見つかったとしたら、それこそただではすまないことになるでしょう




どうしようか途方にくれていると、突然その少年がどこかに電話をかけ始めた




電話を切ると、少年のいわく「俺の友達の家に今晩泊まれ」とのことでした



確かに宿では足がついてしまうし、野宿も警察に見つかる可能性がある、一番安全なのは人の家に泊まることだろう



しかし、彼も先ほど警察に顔を知られてい以上、僕とのさらなる接触は彼の身を危険に晒すことになる



彼なりの最大限の僕への優しさだったのだでしょう、僕は彼へ感謝の頭を下げました




そして郊外にあるという彼の友達の家まで案内してもらいました





移動中や家に入る時も、常に誰にも見られていないか確認




彼曰く見つかって連絡されたらまずいのこと




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そして家に無事につくことができた


彼は僕を家に届けると、さよならも言わずに行ってしまった。本当に良い人でした



家で対応してくれた少年の友達は僕を温かく迎えてくれました



「警察は嫌い」


彼はそのようなことを言っていた。
やはり高圧的で冷徹な態度をとる警察はこの国では国民から好まれていないのでしょう
イメージとしては、戦時下の日本の憲兵みたいな感じでした




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僕を一晩匿ってくれたトルクメニスタンの青年


次の日の朝、目立たないように夜明け前に出発するつもりでしたが、昨晩の疲れからか、寝坊して外はすっかり明るくなってしまいました



しかし、幸い、ここは国境から30km
急いで走れば2時間以内にウズベキスタンに出国できる。見つかる前に国境まで急いで走り抜けるしかありません





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行く前にご飯を食べていけと言われました

パン、そして家で育てている牛のミルクから作った自家製ヨーグルトをいただきました



お茶に巨大な角砂糖、トルクメニスタンの人は角砂糖をたくさんお茶に入れるみたいです



僕が家を出発しようとすると


「外の気温は寒いだろう、これ持ってけ」


と、厚手のセーターと長ズボン、それに靴下、スニーカーまで貰いました


僕は今まで半袖半ズボン、それに薄手の長ズボン、サンダル、で過ごしていたので本当にありがたかったです



また、「昼食に食べて」とパンまで貰いました




匿ってもらっただけでもありがたいのに、食料と衣服まで...




感謝の気持ちしか湧きません



お礼を述べ、家を後にしました





国境まで30km、足は少し痛みますが、今までにないくらい全力に走り続けました





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途中で見た、大統領が描写された看板


前大統領の頃よりか、この国の体制はましになったらしいですが、現在でも独裁は続いるみたいです

独裁体制の国家では、国民から政治の権利を取り上げる代わりに、教育、医療、電気やガス、水道などの社会福祉や生活費を無料にする手段がよくとられます。(クウェートやキューバとか)

そのようなシステムを成り立たせる背景には国内の豊富な天然資源の存在(トルクメニスタンの場合は天然ガス)があるのでしょうか


しかし、トルクメニスタンの国内の状況を見ると、都市部と農村部の格差はかなりあるように思え、このような政治体制もいずれガタがき始めるのではないかと考えさせられます





しばらく走り続け、国境まで残り10km





しかしここで突然の土砂降り



自転車を漕げないほどの雨脚、そして急激な気温の低下、寒すぎて手先の感覚もなくなってきた



しばらく自転車を押していくと、道の脇の小屋みたいなところからおじさんがこちらに向かって手招きしている




行ってみるとおじさんもここで雨宿りをしているようでした





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おじさんは木材に火をつけ暖をとっていました


僕は焚き火の前で冷たくなった手を擦りあわせる。雨で濡れた衣服からは水蒸気が巻き上がった。



おじさんは、囲炉裏にかけてあったヤカンからコップにお茶を入れてくれました


どうも水は脇の濁った川から汲んできたみたいでした



しかし、今は凍えるような寒さ、とにかく体を温めたいという一心で、お茶をぐいっと飲み干す



体にカーッとお茶の熱さが染み渡る



生き返った...


なんでこんなにもドブで入れたお茶をうまく感じてしまうのだろう




おじさんは終始無言でしたが、僕がすぐにお茶を飲み干すとお代わりを注いでくれ、そして自分が食べていたパンも僕に差し出してくれました



降り注ぐ雨の中、おじさんと僕、二人でずっと焚き火の火を見つめ続ける




トルクメニスタンは「中央アジアの北朝鮮」



国としては恐くて冷たいイメージ、しかし、そこに住む人々は、本当に気さくで温かいひとばかりでした



おじさんと無言で暖をとる事1時間、雨も弱まり、再出発することにしました





早く国を出なくては




おじさんにお礼を言い、出発します



遠ざかっていく中、小屋を振り向くと、おじさんはずっと僕に向かって手を振り続けていました





本当にありがとうございました






その後は無事国境に到着





出国審査で最悪の場合、警察に昨日の事件のことで何か言われるかとビクビクしましたが、何も咎められることはなく、出国することができました



砂漠での危機、そして警察からの逃亡、トルクメニスタンには大変だった思い出しかないが、僕にとってトルクメニスタンの人々との出会いは忘れられないものになりました