国境から世界遺産で有名な古都ブハラまでは100kmもありません、足は痛いですが頑張って行こうと思います
あまり路面の良くない道路が続きます
この日は途中足が痛くなりつつも、必死の思いで完走、無事ブハラに到着することができました
ウズベキスタンは現在、イスラム信徒(主にシーア派)の割合が国民の中の九割以上を占め、国民の多数がムスリムの国となっていますが、その原因となった中央アジア最古のイスラーム王朝が、ここブハラに首都に置いていました。
このミナレットは灯台として、シルクロードの砂漠を行き来するキャラバンたちの目印となっていたとか
この話、イランの砂漠の真ん中あるオアシス都市でも聞いたのですよね
ミナレットとはイスラム教の寺院であるモスクに付随するもので、礼拝時の告知(アザーン)を行うのに使われる、イスラム教国ならどこでも見かけるポプュラーな建造物です
現在でこそ、スピーカーをつけたりすることで、礼拝の告知として効果的に使われているものの、元々のミナレットの始まりは、砂漠を旅する人々にとってのランドマーク的な機能から始まったのではないか、ふとそう思ってしまいました
僕も自転車で旅したので分かりますが、砂漠が広がるような地域では移住可能な環境が制限され、街と街との間隔は数百km開くことも稀ではありません
そのような中、キャラバンたちは旅することを強いられましたが、現代では道の舗装技術の向上により砂漠にも道路が設けられてるものの、その当時、植物も生えない砂漠には道中、目印となるようなものはほぼなかったはずです
砂漠という環境下での灼熱の気温、そして視界を奪う砂嵐の発生、時には命掛けですらあったであろう旅に、その行き先の指針となるような物が必要
それがこのミナレットであったのではないでしょうか
またイスラム教は、砂漠が多く点在する乾燥地域の中東から始まり、中央アジアに伝搬したもの
このような地域でモスクが建設され、旅人たちの必要性からミナレットという建築物が発展した、そのような仮説も成り立つのかもしれません(あくまでも目印としての役割は付随的なものだったり、真相は定かではないですが)
見ての通りの堅城ですが、チンギス・ハンのモンゴル帝国がこの城壁を攻め、激しい籠城戦が繰り広げたものの、結局皆虐殺され、城も破壊されたらしいです(今は修復されています)
トルクメニスタンのメルヴもそうでしたが、モンゴル帝国の徹底的な破壊、騎馬隊を中心としたその軍団の強さには恐れ入ります
ここブハラは東西交易の仲介都市として活躍したため、中国の隋、唐の時代の文献にも「安国」という名前で登場します
そして当時の唐では、安国出身者及びその子孫に「安」という苗字を与えました。
その人物の中で有名なのが、唐国内で「安史の乱」という大規模な反乱を起こした安禄山
この反乱から続く一連の乱により唐は衰退し、後の日本からの遣唐使の廃止にも繋がります
日本はその後、遣唐使の廃止により文化の国風化を加速していきますが、そこへ、このような遠い地であるブハラが少し関わっているのは興味深いです
ブハラ巡りを終えた後は、足のこともあるので、とりあえず列車でサマルカンド、そして首都のタシケントまで移動しました
列車の中で車掌と揉めたり色々ありましたが、サマルカンドに着きました
ここサマルカンドはチンギス・ハン率いるモンゴル帝国の継承政権の一つ、ティムール朝の首都として有名な街です。
その歴史は2500年も続き、中央アジア最古の都なのだとか
上の写真はティムール朝創始者のティムールです。
彼はモンゴル帝国の侵攻によって破壊されサマルカンドを復興させた功績があり、また中央アジアを代表する軍事的天才としても著名で、ウズベキスタンでは英雄的な扱いだそうです、
彼は軍を率いて、現在のトルコの首都アンカラまで攻めたらしいですが、アンカラから此処まで来た僕からすると、ティムールがいかに遠方まで支配勢力を広げようとしていたかが実感できます。
ウズベキスタンは元ソ連国の一つ、1941年にソ連の学者によって、この廟が調査された時、ティムールの墓の裏側には「私がこの墓より出たとき、世界は崩壊するだろう」というような意味がかかれていたらしいです。
そして、墓が開けられたその数分後に、ドイツがソ連に攻撃を開始し、第二次世界大戦における独ソ戦の始まったとか
真相は定かではありませんが、おもしろい逸話ですね
ここはイスラム教の開祖ムハンマドの遺髪が収められているというルハバット廟
中に入ろうと試みるも、門が閉ざされていました
そして、いよいよ来ました、ウズベキスタンのハイライト、レギスタン広場、イスラム教の神学校、モスクが並ぶ広場です
やっぱり、人に撮影して貰うのが一番ですね
このモスクの青色と、澄み渡る青空からサマルカンドは「青の都」って言われてるみたいです
当然ですが、世界遺産の広場の中を、大量の荷物をパッキングした自転車を押して歩いてると、好奇の目にさらされます
建物の写真を撮ろうと思ったのに、いつの間にか人が集まってきます
建物の上部を見ると、トラのような絵が
今まで通った国の中でモスクなどのイスラム教の建築物は多く見てきましたが、偶像崇拝が禁止されているイスラム教で、このような動物が描かれているのを見るのはとても珍しかったです
実はこのような装飾、ブハラのモスクでも見ました
少し見えづらいですが、アーチの上に鳥のような絵が描かれています
イスラム教では偶像崇拝は禁止、なぜウズベキスタンのブハラ、サマルカンドではこのような装飾が見られるのでしょうか
偶像が描かれたこの建物の建造年をそれぞら調べてみると、レギスタン広場のシェルドル神学校が1636年、そしてブハラのナディール・ディヴァンベギ神学校が1631年、つまりほぼ同時期に建設されていることがわかりました。
そしてその時の支配勢力を調べると出てきたのがブハラ・ハン国、ムスリムの皇帝や王が支配を行うイスラム王朝の一つです。
ブハラ・ハン国は1500年~1920年にかけて存在した国みたいですが、1600年前後にその支配地域が最大となり、その後続く1611年に即位したイマーム・クリによって最盛期が築かれたようです。
つまり、この偶像が描かれた建物たちは、この国の最盛期に建てられようでした。
そして、この描かれているトラ?(ライオンでした)について調べてみると、ウズベキスタンでは古来ライオンは支配者の紋章として考えられているみたいでした。(鳥は謎でした笑)
このような事実から単純に考えると、当時最盛期を誇ったブハラ・ハン国の統治者が宗教をも凌駕する権力を誇示するため、教義に反してまでこのような建築物を建てさせた、という説もなくはないのかもしれません
ブハラ・ハン国はイスラム教国家でその支配者はムスリムなのに?
と思ってしまいますが、前述したティムール朝のティムールなど、当時から国のマイノリティになりつつあったイスラム教徒の支持を得るためにムスリムになったりと、敬虔な信仰心を持たない支配者も少なくはなかったようです(日本のキリシタン大名のようなものです)
また、ブハラ・ハン国の領域を確認すると、イスラム教国としては東端に位置している国でした。従って、近くの明などのイスラム教国以外の交流があり、偶像崇拝の厳格な禁止に対する寛容さが存在した可能性もあるのかもしれません。
真実はわかりませんが、ここウズベキスタンでは、独自のイスラム建築が発展を遂げ、今日に於いても当時の国の隆盛を垣間見ることができます
夕飯は中央アジア名物、ラグマンを食べました。
中央アジアではポピュラーな料理らしく、うどんのような麺の上にトマトソースみたいな物がかかってきました。
麺は柔らかかったですが、久しぶりに(イタリア以来?)麺類を食べれたので感動です。
この料理は中国内陸部から伝わってきたみたいです、食文化も段々と日本に近づいてきたなと嬉しくなりました。
シルクロードのハイライト、サマルカンド
アレクサンドロス大王やマルコポーロもこの地を訪れています
ギリシャやイタリアを通った自分としては、自分も彼らと同じような道を辿ってきたのだなぁ、と感慨深いものがありました。
とにかくここまで辿りつけてよかったです
この後、首都タシケントに移動した後は、また自転車でカザフスタン目指し、出発したいと思います!