ウズベキスタンのタシュケントに行く途中の列車の中で、ある日本人のご年配の方と仲良くなりました
その方は、昔、シベリアと南米を自転車で旅したことがあるらしく、僕の姿を見て昔のことが懐かしくなり、喋りかけてくれたみたいでした
「今時の若者なのにガッツあるねぇ~」
と言ってくれましたが、多分結構なお年にいっているのにも関わらず、一人旅を続けているその方をみてガッツを感じました
僕が列車から降りる時
その方は「自転車旅、疲れた時はビールに限るよなぁ、これでビールでも飲めよっ!」
と僕の手にドル紙幣を握らせ、列車で去って行ってしまいました
紙幣の額を確認してみると、なんと120ドル(約14000円)でした。
僕もあんなカッコいいおじいさんになりたいと思いました
ウズベキスタンの首都タシュケントに到着した後は、特に見るところもなかったので、レストランで中央アジア飯を堪能してました
ウズベキスタン料理の一つ、マンティ
シュウマイを巨大にしたようなもので、ソースは脇に添えてあるヨーグルトソースをつけて食べます
グルジアのヒンカリと同じように、モンゴルのボーズが、モンゴル帝国の支配領域の拡大によってこの地にもたらされたものなのでしょうか
泊まっていた宿のおじさんがウズベキスタンの伝統楽器で一曲弾き語りしてくれました
この楽器はドゥタールと呼ばれる、ウズベキスタンで古くから使われていた楽器だそうです
ドゥタール?どこかで聞いたことあるような、と思い写真フォルダを探すと
イランのヤズドで、仲良くなった店のオーナーに演奏してもらった楽器、「タール」。
名前も似ていますが、よく見ると、楽器の形も瓜二つ
調べてみると、弦楽器は元々ペルシャ文化の中で形成された楽器で、やはりそれがシルクロードでの交易を通じて東方へ伝わり、中国でニ胡弓、日本で琵琶になったみたいですね
これがシルクロードを通じて日本にもたらされ、現在は正倉院に納められている琵琶、似ています
こんなに長い距離を経ているのにも関わらず各地に見られる共通点、本当にこの旅をして文化の伝播のすごさを考えさせられました
そしてタシュケントで3日程休んだあと、そろそろ足も良くなっただろうと思い、カザフスタンに向けて出発
タシュケントからカザフスタンの国境までは20km程、すぐに到着
無事国境での手続きを終え、カザフスタン側へ
カザフスタンで広がっていたのは一面の大平原
ここカザフスタンはステップ気候による平原が中心で、内陸部においては世界最大の面積を有する国でもあって、広大なランドスケープが見られます
本当に平原しかない、遠くで羊かヤギの放牧が行われている、のどかですなぁ
道をヤギの大群が行きます
平原の彼方先、地平線に夕陽が沈んで行く様子は綺麗です
日本は国土の7割以上が森林や山地に囲まる国
地平線まで続く景色を見る、そんな経験は多分北海道とか一部の地域でしか出来ない
なので、僕は旅に出て初めてこのような景色に出会い、その度に感動することができました
しかし
このような地域
風が半端ねぇのです...
風を遮る森林や山地がないので、それが砂漠では砂嵐を生み、平原では突風となって
自転車の進行を拒みます
時にテントも風で吹き飛ばされそうになります
そして、この日も、辺りが暗くなるにつれ風が強くなってきました
そして雨も降り始めました
平原での雨、これ最悪なんですよね
なぜって、平原なので建物がなく、雨を防ぐために屋根の下にテントを張ることができないからです
しかも、カザフスタンの10月後半、寒いのです
平原で周りに何もなし、風が吹き付ける中テントを頑張って張るも、中は雨びしょ濡れ、おまけに寒い
こんなことはごめんです
もう時刻は6時をまわり暗くなってしまいましたが、地図を見る30km先に小さな町がありました
その場所に微かな望みをかけて、頑張って行くことにしました。
真っ暗な平原の中、雨風と格闘すること約2時間
道の先に小さな光が見えてきました
近づいてみるとレストラン(?)みたいな施設でした
施設の中にいたおばさんに、店の前にテントを張っていいか尋ねたところ
「外は寒いから、中で寝なっ」
と、中に案内されました
部屋に案内され、「今晩は寝ていいからっ」とのこと
まさかの個室部屋で一泊できることに
つい数時間前までは、真っ暗な草原の中で一晩過ごさなくてはならない覚悟をしていた自分にとって、まさかのサプライズです
数時間後には自分がどうなっているかわからない、これが自転車旅の醍醐味でもあります
部屋でシャワーを浴び、温まり、ベットでゆっくりしていると、部屋に施設の若い青年が来ました
どうも今隣の建物で結婚式が行われているらしく、一緒に行こうとのこと
カザフスタンの結婚式はどんなものなのか興味があったので、一緒に行ってみることにしました
結婚式の会場の様子はあまり日本と変わらない様ですね
ただ、カザフスタンの伝統的な楽器を使った音楽の生演奏が、大音量で会場の中に響き渡っています
会場中から拍手が送られます
式の会場入り口には、多分新郎新婦の親族であろう人々が並び、会への参加者に挨拶を交わします
僕も全くの部外者なのに、入る時に親族に挨拶されました
新郎新婦が席につくと会場は大盛りあがりです
軽い開会の挨拶みたいなのが行われた後、皆が食事にありつきます。僕も部外者なのにちゃっかり食事を頂きました。
そして、いよいよ、新郎新婦のスピーチ的なものが始まります
しかし
皆食事にがっつき過ぎて、誰もスピーチを聞いていません、見向きもしません
普段あまりご馳走にありつける機会がないので、こんなことになるのでしょうか
しかし、新郎新婦かわいそう
そう思いながら僕も一緒に食事にがっつきました
食事も一通り進み、式も中盤に差し掛かると、音楽の演奏が再度始まります
僕も脇で聞いていたら
「おい、おまえ、何か演奏できるか?」
と楽団の人に言われ
「いや、無理」
と答えると
変な太鼓を渡されました
まさかのセッションスタートです
もうよくわからないので、ノリで合わせるしかありませんでした
会場中から「あいつ誰?」、という視線が注がれている気がしなくもありませんが、僕なりに人事は尽くしました
そして演奏が終わると、新婦とその友人たちでダンスが行われます
こうやって式の前方で、新婦とその少数の友人たちが輪になって踊ります
面白そうだったので、脇で写真を撮っていると
「お前も加われ」
みたいな感じで、脇にいたおじさんに背中を押され、またもや急遽参戦です
これまたよくわからない振り付けで皆踊っているので、ノリで合わせます
しかし、曲が進むと、輪の中にいる人たちが、順番に一人一人中心に出てきて、新郎とダンスバトル(?)みたいなのを始めました
それで会場も盛り上がるのですが、このままいくと僕に番が廻ってきます、やばいです
僕に踊りの才能はないので、前に踊っている人の振り付けを覚えることもできません
これはやばい
会場からの視線が一点に集まる以上、変なことはできません
周りの人たちはしっかりとした振り付けでダンスバトルを繰り広げています、曲調に適当に合わすその場凌ぎの踊りをしてもダメでしょう
僕の中で、唯一、振り付けの記憶があったもの
自分の地元、与板町の盆踊り
こうなったら、下手な踊りを晒すよりも、カザフスタンの皆様に敬意を表し、「ジャパニーズ・ボンオドリ」、日本の文化を示す方がいいかもしれない、そう思い立ちました
そして自分の番がまわってきました
中心に出ます
またしても、「あいつ誰だ」という驚いた視線が注がれます。というか、そもそもこれは新郎の友人の集団なのに、なぜ僕がいるのでしょうか、僕が一番びっくりです。
もう今更そんなこと考えても仕方がありません
自分がやれることを全力でやるのみ
曲調に合わせて、自分の地元、与板町の盆踊りを全力で踊りました
踊っている最中に、どうして僕は新郎を祝福する式なのに、死者を供養するための舞を踊っているのだろう、と不思議な感覚に包まれましたが、無事に終えることができました
僕が踊り終わった後は、新郎のターンだったのですが、新郎はいきなり自分の前に現れた外人と、その奇怪なダンスを目にして面食らったのか、しばらく動きませんでした
しかし、その直後、僕の盆踊りを真似して踊ってきました
会場がどっと沸きます
多分、新郎さんは見ず知らずの外国人が自分のことを祝ってくれたうれしさと、そのダンスの奇抜さから、このような返答の舞を繰り出してくれたのでしょう
席に戻った後も、周りから盆踊りについて尋ねられました
カザフスタンで盆踊りを少し広げることに成功したようです
まさかの飛び入り結婚式でしたが、楽しい時間を過ごせました
次の日の朝、外は寒さで霜が降りています。
施設のおばさんにお礼を言って、出発しようとすると
「これで昼ご飯でも食べなっ」と日本で2000円ほど貰ってしまいました
一泊させて頂いただけでもありがたいのに...
本当にありがとうございました
相変わらず、道の脇には、永遠に続いているような平原が広がります
自転車を漕ぎ続けること70km
急に右足が激痛に襲われました
道端に倒れ込みます
1週間くらい休みましたが、やはりまだ右足は完治していないみたいでした
とりあえず、休憩しようと思い、道の脇に自転車を寄せ、腰を下ろしました
幸い、前回の砂漠と違い、草原地帯で車も通るので、ここで動けなくても死ぬことはありません
しかし、次の一番近い街まで50km
さて、どうしたものか...
しばらく考えていると、道を行く車の一台が僕の横に止まりました
中から人が出てきて、僕に喋りかけてきます
しかし、ロシア語なので何を言ってるかわかりません
多分、「どうしたのか?」、と言ってきてると思うので、右足を指差し、怪我をしているというアピールをしました
その人とコミュニュケーションを取っている間に、道を通る車が、一台、また一台と脇に止まり、中から人が次々に僕の所にやって来ました
いつの間にか道の脇に座る僕の周りを、大勢のカザフスタン人たちが囲む形となりました
その中で一人、英語が喋れる女性がいました
「どこから来たの?大丈夫??」
彼女がそう言うと、僕は日本出身でポルトガルから日本まで自転車で旅していること、そして足の怪我のため今自転車を漕ぐことができないことを伝えました
「それは大変なことになったね」
彼女はそう言って、僕のことを周囲の人たちにロシア語で伝えてくれ、皆が何か話始めました
しばらくすると、その女性が
「ここから20km行ったところに、バス停があるわ。そこでバスに乗って最寄りの大きな町で乗り換えをして、アルマトイまで行くべきよ。」
と言いました
しかし、この足の状況、どうやってそこまで行きましょうか
すると
「私の車で連れて行ってあげるわ、どうする?」
と言ってくれました
これは願ってもないことです
周りの人も車に自転車を積むことを協力してくれ、僕はバス停まで彼女に送ってもらえることになりました
「その足の状態なら、1回しっかり休みを取った方がいいと思うよ」
彼女は車内でそう僕に言いました
確かに、この足の状態をみると、一度2週間くらい何もしないくらいの期間を設けないと治らないのかもしれません
少し休んで走る、これを今日まで繰り返していましたが、足へのダメージは蓄積する一方で、完全に慢性化してしまっています
ここからアルマトイまで600km、アルマトイまで行ってしまえば、ネパールに飛行機乗るだけなので、しばらく休めることになります
僕は彼女の助言に従い、アルトマトイまでバスで向かうことにし、休みを取ることに決めました
その町に着き、僕が彼女にお礼を言うと
「これ、アルマトイまでの運賃に使って」
と日本円で3000円程のお金を差し出してくれました
最近このように人に何かを貰いすぎて申し訳なくなってきたので、僕がお礼を言って断ると
「絶対役に立つから、受け取って。それと連絡先のメールアドレス、もし何かあったらいつでも連絡して」
と、また渡し返されてしまいました
申し訳ない気持ちがありましたが、それよりも彼女の僕を助けたいという気持ちに感謝し、お礼を言って受け取りました
彼女が去った後、バスはすぐに来ました
バスに乗り込んだ後、一番前の席に座ったこともあり、運転手が僕に仕切りにロシア語で話しかけてきます
僕が自転車で日本まで旅をしていて、足を怪我していることを伝えると
「運賃はいらないよ」
と言ってくれました
そして、目的の町につくと、タクシーを呼んでくれ、その運転手にアルマトイ行きのバス乗り場に行くように伝えて、お金まで渡してくれました
「グッドラック」
彼は去り際にそう言い残し、また自分のバスに戻っていきました
そして僕は自転車を積んだタクシーに乗せられ、アルマトイ行きのバス乗り場まで到着し、無事にバスに乗り込むことができました
なんでこんなにもカザフスタンの人は親切なのだろう
カザフスタンではそんなことを僕に思わせる出来事がたくさんありました
僕に親切にしてくれ、応援してくれた人たちのためにも、アルマトイ、そしてネパールでゆっくりして、体調を整えたいと思います
続く