なぜやりたいとまだ思うのか、なぜやれないのか、ということに一つ気づいた。
(書いていたブログは随時UPします)
カテゴリの枠としては、「やりたいこと」もブログも同じなのに、ブログだと「やっていること」に入らないんだなあ、と思った。
片づけがやれないと思っていて、「立ち上がるのも片づけ(の大事な第一歩だ)」と思えるようになったことと何が違うのか。
「手帳がうまく使えない」と思っていて、「カレンダー型の薄っぺらい手帳でも、それとEDiTとの2冊持ちでも、充分に今は手帳を活用できている」と思えるようになったことと何が違うのか。
自分へのハードルを下げること、
自分がやって良しとする行動のレベルを下げること、
それが行動することへのブレーキを外すことだというのは、良くよくわかってるけど、
どうしてそれができないのか。
どうしてそう思えないのか。
それが一つ見えました。
「やりたいこと」に対する思い入れが強すぎるから。
私にとってコンプレックスは、
外見(見た目、雰囲気、話し方、立ち方などなど見える部分の印象など)や、
片づけができないこと、
時間や行動などの管理が下手なこと(家事なども含まれる)、
自己評価が低いこと(派生して、育児がうまくできない、人との関係が難しい)、
でした。
だから、ブログでも何度も例に挙げて、そのハードルが下がったことで、行動ができたり、気になる部分が減ったりすることを書いているわけですが、
思い入れというのは、プラスの意味でもマイナスの意味でもあります。
コンプレックスは、マイナスの思い入れ(思い込み)が強すぎるということ。
「やりたいこと」というのは、自分の中でプラスの意味づけが強すぎるということ。
このコンプレックスとやりたいことが混じるとさらに面倒。
「片づけられないから、完璧に片づけられる人になりたい」という、
現状と理想の差が大きくなりすぎる(目標が高くなりすぎる)からです。
私にとって「やりたいこと」は、まさに
現状(できていない事実)と
理想(といいながら、その理想を通常にしたい)
のギャップが一番大きいもの。
でした。
逆に、思い入れがないものって、不思議なことに、それなりにやってるんですよね。
もしくは、やらなくても気にならない。気にもとめない。気付かない。
そういう「思い入れやこだわるポイント」は人によって違うのですよね。
(突き詰めていけば、同じカテゴリでもこだわるポイントは微妙に違ってくるのです)
これが、先日書いた「自分にかかっているバイアス」になるわけですが。
思い入れがありすぎて、
現状と理想の差が大きすぎる。
そりゃ、動けないよね。
でも、ふと考えてみたのです。
私にとって「片づける」というのは、「立ち上がる」という状態にまで落とせたわけです。
これは「片づける」というのは、あくまでも経過があることに注目しているからです。
「立ち上がる」のは、一歩目だと自覚しています。
「立ち上がる」行動そのものが、「片づけの完了した形」だとは思ってません。
でも、「片づけの完了した形」は、「立ち上がる」という段階を通らないと到達しないということはわかっています。
ついでに、「片づけの完了した形」は、一朝一夕で到達できるものでもないし、
仮に「片づけの完了した形」を時間をかけて作れたとしても、
そもそも日々の生活をしていてそれを常に維持できるわけではないというのもわかっているし、
「片づけの完了した形」が、自分や家族の生活パターンの変化で変わるべきものでもある、
ということも納得できるようになりました。
そういう意味で、「片づけの完了した形」は、明確なものではなくて、あくまでイメージであり、
その具体性は、「常に完了しない、ある程度の状態」を指すということです。
それは、より良くするための試行錯誤も含めてだし、
疲れているから今日は掃除に手を抜いている、という状況も含めてだし、
今日は子供が家の中で遊んでいるからおもちゃが散らかって紙屑だらけだ、という状況も含めてだし、
外出している日は家の中がそのままだ、ということも含めてです。
私にとっての、今思う「片づけ」とは、
「【常に完了しない、ある程度の状態】にするための行動」です。
「【片づけの完了した形】になる」ではありません。
「【常に完了しない、ある程度の状態】にするための行動」が、
1分だけなのか、10分なのか、30分なのか、
1時間使えるのか、2時間使うのか、
というのは、
日々の生活の中で自分が決めていいだけのこと。
部屋の状況や汚れ度合に対するストレスと、生活パターンや時間の有無によって調節していいことなのです。
で、私の今の「やりたいこと」に対するイメージって、
例えば、
ダイニングテーブルにプリントや郵便物や子どもが作ったものが山積みになっている。
食器棚は普段使う分には問題ないけど、見た目がいいとは言えない。
どちらもどうにかできたらいいけど、生活に困ることはないから見ぬ振りでしている。
のに、
食器棚の一画に、特別なお客様用のティーセットを置いて、そこを毎日掃除したい。
くらいに、「現状」と「やろうとしていること」の乖離があります。
そりゃ、むりじゃん!!!!

できるはずないわ(笑)
と気づきました。
やろうとしてることが、何だか見当違いだ

食器棚の一角に置くのを、
特別なお客様用(年に1、2度もないような相手)に使うティーセットではなくて普段使いの食器にするとか、
毎日掃除するならダイニングテーブルにするとか、
やりたいことの手段や場所を、もっと日常に近づける必要があるってことでした。
思い入れが強すぎるって、現状を見落として、こういう変な(通常の生活とはかけ離れた)方向に走るってことなのかも、です。
でもその「おかしさ」に気づくと、軌道修正ができます。
(この記事書いていて、気づいてしまいました。自分の軌道修正の方法に!)
「部屋がきれいになること」を目指したって部屋は綺麗にならないけど、
「立ち上がること」は「部屋をきれいにすること」だ。
今必要なのは、「目的を達成した状態」ことを目指すことではなくて、
必要なのは「目的へ向かう経過」のための行動だ。
なので、
いいや、ブログでまずはいいや。
充分だ。
年末くらいから取り組んでいるワークで、ノートにもほぼ毎日走り書きしてる。
充分だ。
具体性はちょっと違うけど、カテゴリとしての「何かを考えて、文章を書く」ということは、
上の息子が赤ちゃんだったときとは違って、やっている。
やれる状況にある。
「ない」と思っていたものは、
実はもう「あった」。
私は結構頑張ってたかも、です。